2016年7月号(第62巻7号)

〇世界文化遺産の登録が話題となっている東京・上野の国立西洋美術館で、先月の半ばまでカラヴァッジョ展が開催されていた。カラヴァッジョはバロック絵画を代表するイタリアの画家で、16世紀末~18世紀半ばのバロック期の初期に活躍した。明暗のコントラストで人物などを浮かび上がらせるキアロスクーロの技法を用いた彼の作品は、多くの画家に影響を及ぼし、彼の技法に倣うカラヴァジェスキと呼ばれる画家も数多く現れ、ルーベンスやレンブラントなどバロック絵画の巨匠である画家達の作品にもその影響を多くみることができるといわれる。
天才画家と賛美される一方で、私生活では口論や乱闘を繰り返し悪名高かったカラヴァッジョ。肖像画で見る限り、少し長めのウェーブがかった髪、異様に太いアーチ型の眉、鼻と顎の下に蓄えた硬そうな髭のすべてが黒々として迫力があるが、大きな黒い瞳には疲弊感と悲しみの色が浮かんでいるように見える。
さて、美術館へは会社の最寄駅からひと駅、いつでも行かれるという安心感が災いして、結局は最終日の時間ギリギリにタクシーに飛び乗った。行き先を告げると運転手さんに「美術館では今、何をやっているんですか」と聞かれた。「カラヴァッジョ」と答えると「それ、イタリア料理かなんかですか」というので一緒に大笑い。そうこうしているうちに美術館に到着した。
カラヴァジェスキの作品も加えて、風俗、五感、静物、肖像、光などのテーマに分けて名画の数々が展示されており、さらに、カラヴァッジョが刀剣の不法所持や暴力沙汰で裁判が行われた際の古文書までもが展示されていた。
絵画は、若者の運勢をみる素振りで指輪を抜き取ろうとする狡猾な「女占い師」、痛みに驚き顔をゆがめる「トカゲに噛まれる少年」、神からの罰で自分しか愛せなくなり、泉の水面に写る自分の姿に虚しい恋をする甘く切ない表情の「ナルキッソス」等々、美術館の薄暗さも重なり、カラヴァッジョの特殊な技法によって闇から浮かび上がるように描かれた人物像はどれも体温すら感じられるほど生々しい。なかでも今回話題になっていた世界初公開の「法悦のマグダラのマリア」の絵の前には黒山の人だかり。遂には殺人を犯し逃亡生活を続けていたカラヴァッジョが38歳でこの世を去ったとき、大切に持っていた三枚の絵のうちの一枚とされる。法悦とは仏の教えにより喜びを感じることや陶酔などの意味があるが、乱れた衣服の間で剥き出しになった血の気のない肌、椅子にもたれて天を仰ぎ、あの世を見ているようなうっすらと開いたうつろな目からは一筋の涙が流れていて、美しいというより恐ろしさを感じた。一番見たかった酒の神「バッカス」の絵の前では、時間をかけてジリジリと良い場所ににじり寄り、間近で眺めることができた。赤い頬をしてうっとりとこちらを見つめ、並々と赤ワインを湛えたワイングラスを差し出す艶かしい神様。頭上にはぶどうの木の冠を載せ、手前には果物を盛った皿が置いてある。よくみると冠の葉は枯れており、果物は傷み、グラスを持つ指の爪は黒く汚れている。享楽の世界へと誘うようなこの絵は、享楽には代償が伴うことを風刺する意味が籠められているようである。モデルはカラヴァッジョ自身ともいわれており、ひょっとすると自らの生活を重ねたものかもしれない。1595年ごろの作品というが、お酒や楽しみに溺れてはいけないのは何年経っても変わらないことである。

(大森圭子)