2016年6月号(第62巻6号)

〇柳の仲間ではないものの、枝のしなり具合や葉が柳に似ていることから未央柳(びょうやなぎ)・美容柳(びようやなぎ)・美女柳(びじょやなぎ)などと呼ばれる花木は、この時期になると沢山の黄色い花を咲かせる。五枚の花びらを大の字をなぞるようにのびのびと広げ、その中心の雄しべは長く茶筅の先ように内側にゆるくカーブしていて、まるで黄金色の噴水のようである。ほぼ同じ時期に良く似た花を咲かせる金糸梅(きんしばい)という花木があるが、未央柳では、花びらが隣同士やや離れているのに対して、金糸梅では間があいていないところが見分けるコツである。
黄色い花の色は大量の湿気を含んだ生ぬるい空気に滲むようにあたりをぽうっと明るくし、および腰の夏に“慌てることはないよ”と諭すように梅雨の季節に優しく色を添えている。
美しい花ではあるが、唯一の悩みはその下に落ちる大量の花びらと雄しべである。さて掃除をするかと箒を持って近づくと、雄しべの一本が動いたような…よくよく眼を凝らして見ると、生まれたばかりの小さな蟷螂(かまきり)が慌てて逃げていくところであった。
〇梅雨の晴れ間が広がるある休日、武蔵野の面影が残る京王百草園に足を伸ばした。元々この一帯は平安時代から鎌倉時代にかけて真慈悲寺という大寺院があったとされ、享保2年(1717)には小田原城主大久保忠増の正室・寿昌慈岳元長尼によって松連寺が建立された。明治時代になると松連寺は廃寺となったが、明治20年(1887)に百草村出身の豪商が跡地を買い取り、百草園を開園したそうである。
駅からの道は、気を抜くと転がり落ちてしまうような急な坂道が続く。息をはずませながらようやく入り口の石段を登る。この時期のみどころは何と言っても紫陽花である。順路に沿ってゆっくりと歩みを進めると、大きさのわりには決して派手すぎない様々な種類の紫陽花がかわるがわる出迎えてくれる。狭い順路を曲がり突如開けた場所に出ると、目前の立派な梅の木に圧倒される。この梅は寿昌院自らが植樹したといわれ、沢山の添木を従え大きく枝を広げるその姿は、庭園の歴史の深さを物語っていた。 
旅を愛した歌人・若山牧水も早稲田大学の学生時代に恋人・園田小枝子とこの庭園を訪れている。翌年、一つ年上の人妻であった小枝子との悲恋に終止符が打たれると牧水は再びこの地を訪れ、失恋の悲しみを歌に詠み、歌集「独り歌へる」を結実させ、歌人として生きる決意をしたそうである。庭園内には牧水の長男・旅人氏が設計した歌碑があり、その一つに「山の雨しばしば軒の椎の樹にふり来てながき夜の灯かな」の句が刻まれていた。ふりかかる不運や悲しみに流されず、じっと耐える辛さと引き換えに強さを蓄え、自分の道を切り開いた歌人に学ぶところは大きい。
見晴らしの良い高台のベンチで暫く涼しい風に当たり、久しぶりに静かなときを過ごさせてくれた名庭園に感謝をして帰路についた。

(大森圭子)