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2019年7月号(第65巻7号)
〇長梅雨で、連日ぼんやりした天気が続いている。昨年の今の時期と比べ気温も大幅に低く、うんざりするような強烈な夏の暑さすら恋しいような気持ちになる。7月15日の海の日の祝日には、ニュースでも昨年は賑わっていた海水浴場の様子と、人影もまばらで寒々しい今年の様子が取り上げられていた。
〇古くは旧暦の7月7日(新暦では8月中旬)の七夕の日に、江戸では井戸浚(さら)いの行事が行われていたそうだ。井戸浚いとは、井戸の水を汲み出し、落下物を取り除き、井戸の中を洗う井戸の大掃除のこと。年に一度、七夕の日に井戸浚いを行うのが習わしで、七夕を迎える前に井戸を守る神様を御祭りする儀式でもあった。共同で井戸を使っている住民が総出で行うが、井戸の中を洗うのは危険を伴う作業なので「井戸職」なる専門業者が井戸の中に三分ほど残った水をくぐりながら掃除をしていたようである。
人が生活をするための水を蓄えるところを井または井戸といい、弥生時代の遺跡からも井戸の形跡が確認されており、古くから人の暮らしの知恵として井戸の存在があった。川の水や泉から湧き出る地下水をせきとめて利用できる形にしたり、崖や窪地を掘って水を貯め、汲み取れるようにした原始的な様式から、掘削技術の発展、水道が整うまでの長きにわたり、様々な形の井戸が誕生した。私が「井戸」と聞いてイメージするのは、地下深く縦に穴を掘り、地下水を溜める堀井戸であり、釣瓶を使い桶で水を汲む形のものである。子供の頃には「井」の文字を伝えるのに、誰かから聞いたまま意味もよく分からずに「井(い)桁(げた)のい」と言っていたが、「井桁」とは井戸の地上部の淵にある木で組まれた枠を表す言葉で、「井」はこの象形文字である。
「江戸府内絵本風俗往来」(菊池貫一郎)には、七夕を迎える前に、井戸の化粧側をはずし、大きな桶を下ろして水を七分ほど汲み干し、掃除をしたあとは化粧側を元に戻して、板戸で蓋をした上にお神酒塩を供えていたことが書かれている。この本にあわせて載っている井戸浚いの絵には、着物の裾をまくった沢山の男たちが、水を汲むために一列に並んで縄を引く様子が描かれ、やや疲れた表情をみせている。その向こうの長屋の低い屋根には、処狭しと何本も七夕の笹が突っ立っており、ぶら下げられた札や吹流しが風にたなびいてにぎやかである。わが国では今や、水道のレバーに触れもせずにセンサーで水を出せる便利さであるが、この絵を眺めていたら、いつでも水が使える有難さ、感謝の気持ちが地下水のように涌いてきた。