2019年3月号(第65巻3号)

〇このところ、うららかな天気に恵まれる日も多くなり、心なしか黄味を帯びた光に包まれた景色を眺めていたら、頭の中の古びたレコードがゆっくりと回転を始めた。曲は「春がきた春がきたどこにきた」で始まる童謡「春がきた」(曲:岡野貞一詞:高野辰之)である。山や里や野のどこかしこにも春が訪れ、花は咲き、鳥が鳴く様子を歌った、一度聴けば口ずさめるほどの短い歌であるが、自分の中の春を迎える喜びの大きさと相俟って、心を浮き立たせる。この曲が『尋常小学読本唱歌』に発表されたのは明治45年のこと。同じ年に発表された曲に「冬の夜」(作者未発表)がある。「燈火ちかく衣縫ふ母は春の遊びの楽しさ語る居並ぶ子どもは指を折りつつ日数かぞへて喜び勇む囲炉裏火はとろとろ外は吹雪」。高野辰之は長野県の生まれ。その昔、冬のあいだ雪深い国で育つ子らは、ようやく迎えた春の兆しにどんな安堵感や喜びを得たのだろう。進化したエアコンや衣服で1年をおだやかに過ごすことができ、不順な気候で四季の区切りもつきにくい今の時代になっても、昔の人の暮らしや気持ちに、心を馳せる優しさを忘れずにいたいものである。
〇先日、まとまった休みを取り、箱根強羅公園近くの宿でひとときを過ごした。ほど近いところには数々の美術館があるが、今回初めて知った岡田美術館に足を伸ばすことにした。到着してふと横を見ると、正面の壁一面に大きく描かれた、俵屋宗達の屏風絵で有名な「風神・雷神図」に目を奪われた。縦12メートル、横30メートルという大きさ、まるで天上で向かい合う神達の凄みを目の当たりにしたような迫力に愕然とし、その緻密さにも大いに驚かされた。旅中のちょっとしたお楽しみ程度の気持ちで訪れたことをすまなく思いながら入り口をくぐる。館内には、国内外の陶磁・ガラスの器、絵画、漆芸、仏教美術など、広々としたフロアの1階から5階まで、心地よさそうにゆったりと美術品が展示されていた。幸運にも開館5周年を記念した展覧会が行われており、これまでの展覧会での主役たちを全て展示しているとあってどの作品も素晴らしく、個人的に好きな絵画の領域では、上村松園、横山大観、喜多川歌麿、葛飾北斎等々の傑作と一度に出会えるとは思いもよらなかった。なかでも最近、テレビでも特集が組まれ話題を集めている伊藤若沖の絵の前には、展示された「孔雀鳳凰図」の細かい筆のタッチを間近で見ようと、近くに歩み寄ってはガラスに顔を近づける人が絶えることはなかった。
美術館のほかにとくに大きなことはしなかったけれど、おかげで大満足の旅となった。この先、梅雨を迎えるまでの恵まれた季節、小さな旅に出てみてはいかがでしょうか。思いも寄らない素敵な出会いが待っているかもしれません。

(大森圭子)