2017年8月号(第63巻8号)

〇夏も間もなく終わりというところで、振り返ってみると思い出すのは最近の雨ばかり。お休みに行った先では大雨に封じ込められ、TVの前で大雨や洪水、土砂災害などの警報に常に注意を傾けなければならなかった。夏らしくない夏が過ぎ、気づけば秋の気配もちらほら。よく眠れぬまま迎えてしまった朝のように、いつもとは違う時を過ごしたあとに急に次の季節が訪れても、気持ちの切り替えは難しいものである。
〇古くから夏に重宝する道具として、風鈴、蚊帳、うちわ、蚊取り線香などが思い浮かぶ。蚊取り線香といえば緑色をした渦巻き型がお馴染みであるが、初め粉末や棒状であったものが、安全性や長時間燃焼させることを考慮してたどりついたのが渦巻き型だそうである。
蚊取り線香の原料となるのはその名前にもなっている除虫菊である。ほかにシロバナムシヨケギクの名前もあり、キク科の植物で、中央にある黄色い花の円を囲んで小さな白い花びらが並んでいる。広島県尾道市の因島の市花でもあり、以前は、除虫菊の見頃になる5月には島の山野いっぱいにこの花が咲き、その景色から「ロマンの島」とも言われたそうである。
殺虫成分であるピレトリンはこの花の子房(雌しべの下の膨らんだ部分)の部分に多く含まれ、植物の地上部分を乾燥させたものを燻すことで殺虫成分が効果を発揮する。今はピレトリンに似た化合物であるピレスロイドが主流になっているそうで、渦巻き型の蚊取り線香を日本に広めた有名メーカーでも産業としての除虫菊の栽培は行っていないそうである。
〇「婆やが除虫菊の茎を刻んだ蚊いぶしを風上の縁先に置いてくれた。煙が鼻の先を流れて行った後で、時時微(かす)かにぱちぱちと鳴る音がした。自分には見えないけれど、小さな火花が散っているのが見える様な気がした。」(内田百閒「東京日記」岩波文庫)
平安時代から大正時代までの間、日本では「蚊いぶし」「蚊遣り」「蚊くすべ」などといって、かやの木などの木片を火鉢でたいたり、蓬(よもぎ)や杉の葉を燻した煙で蚊を追い払っていたそうだ。除虫菊は内田百閒の生まれた明治22年より4年前に米国から渡来しているので、この頃にはすっかり「蚊いぶし」の材料に除虫菊が使われるようになっていたのだろう。
内田百閒が、除虫菊をたいたぱちぱちと鳴る音に見えない火花が見えたといえば、静かな夏の宵闇にたなびく煙やその匂い、ぱちぱちという音、小さな火花が散る様子が自ずと思い浮かぶ。いまの時代は、よほど自分の生活に侵入するものに敏感になっているのか、極力音がしないもの、においがしないもの、煙が出ないもの、甘くない、辛くない…などなど、何かというと気配を消すものが好まれているが、「蚊いぶし」に取って代わり「電気蚊取り」であったなら、なんと味気ないことか。蚊取り線香の煙や香りが忘れていた懐かしい夏の思い出を連れてきてくれることもあり、生活の中にちょっとくらい煩わしいものがあるというのもなかなか良いものである。

(大森圭子)