2017年4月号(第63巻4号)

〇この季節、室内から眺める景色はすっかり春めいて明るく穏やかでも、一歩外に踏み出せば突風にさらされることもある。吹きすさぶ風の中で思い浮かぶのは「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」の一文、元は漢詩「勧酒」の一節「花発多風雨人生足別離」を小説家・井伏鱒二が訳したものである。
多くの人が開花を心待ちにし、ようやくその時期を迎えて咲き誇る桜の花の上にも、ぬくもりが宿っているようにも感じられるふっくらとした木瓜(ぼけ)の花の上にも、人知れず咲いている可憐な野の花の上にも、春の嵐は容赦なく吹きつける。
「さよなら」すら言う間もなく、ひと晩中風が吹き荒れた明け方には、昨日まで咲いていた美しい花々がすっかり無くなっていることも稀ではない。
〇 風にかかわる気象を表す用語には、立春を過ぎて初めて吹く暖かくて強い南よりの風を「春一番」、急に吹く強い風で継続時間の短いものを「突風」、風速の変動幅のことを「風の息」(誰が名づけたのか素敵な響きである)などがある。また季語には、春を告げる「東風(こち)」、春先に砂浜に貝を吹き寄せる「貝寄(かいよせ)」など、もとは目に見えない「空気」であるにもかかわらず、その動きや動かすものによって数え切れないほど沢山の名前が付けられ、色付けされている。これは風が、いかに人々の生活に寄り添っているかという証でもある。
〇 鴨 長明「方丈記」には「…治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六条わたりまでふける事侍りき。」「三四町を吹きまくる間に籠もれる家ども、大きなるも小さきも、ひとつとして破れざるはなし。」と書かれている(「方丈記」角川文庫 鴨 長明 簗瀬一雄訳注)。
これによれば1180年4月ごろ、3、400メートルを吹きぬける突風が起きて家々は大小の区別なく被害を受けた様子で、このあとの文章では、舞い上がる塵で目もあけられず、鳴り響く風の音で人の声も聞こえないほどであったとして、悪行の報いとして地獄に吹くという「業(ごう)の風」もこのようなものではないだろうかと続けている。
日ごろのつむじ風とは違い、このときばかりはただ事ではない威力であったようだが、人の暮らしが風に脅かされるのは800年以上前の時代も今の時代も同じ、この時期はとくに注意が必要だということを先人はちゃんとわれわれに残してくれているのである。

(大森圭子)