2015年8月号(第61巻8号)

〇夏の暑さには冷房が対応し、涼しい室内で団扇(うちわ)や扇子(せんす)はあくまでも補助的な役割となっているが、冷房が誕生してからおよそ100 年と歴史も浅く専ら機能重視なのに対し、団扇や扇子は歴史も古くその役割も多様である。
〇団扇は古代エジプトの壁画や紀元前の中国の記録にもみられ、日本には中国から渡来したと考えられるが、扇子は、団扇をもとに発明された日本発祥の道具である。
〇日本で扇子が作られた年代は不明だが、まず初めにヒノキの薄片をつづり合わせ、一方を糸で綴じ、もう一方を糸でつないで開閉可能とした檜扇(ひおうぎ)が発明された。檜扇は、宮中の行事で用いられたこともあり、涼をとるためではなく官人の持ち物として、また、神事や儀式等で威儀を正すためにもつ笏(しゃく)(閻魔様が右手に持っている平たい棒のようなもの)の代用としても用いられた。薄片の数で身分の区別もあり、様々な絵も描かれるようになって、宮廷の女性の装飾品としても高い関心を持たれていたようである。一方、団扇から蝙蝠扇(かわほりおうぎ)も生まれた。5本程度の骨をつづり合わせ、一方を綴じ、開いた骨の片面に紙を貼った開閉式のもので、開いた形が蝙蝠に似ていることからこの名がついている。
〇団扇や扇子の話をすると、フランスの画家クロード・モネが描いた「ラ・ジャポネーズ」(1876年)という作品が浮かぶ。モネの妻・エミーユが、金髪のかつらをかぶり、太刀に手をかけた猛々しい武者やとりどりの紅葉の刺繍が施された朱色の着物を羽織り、大きく広げた扇子を手に体をしならせて芸者風のポーズをとっている。背後の壁やゴザのような床には、鶴や魚、渡し船、浮世絵などが描かれた団扇が散りばめられている。万国博覧会に日本から出品された浮世絵に影響を受けて描かれたことでも有名な作品である。
〇国際博覧会(万国博覧会)の歴史は古く、1798年にパリで開催された博覧会が始まりである。同年の日本は鎖国只中の江戸時代、本居宣長が「古事記伝」を完成させた年でもある。
1862年のロンドン博覧会では、駐日イギリス大使のコレクションから日本の美術品が初めて出品された。日本が国として初めて参加したのは明治維新からわずか5年後の1873年、ウイーン万国博覧会からである。
「19世紀後半は万博の時代」とも呼ばれるほど、1798年のパリ以降、万博は各国で開催され大きな発展を遂げている。万博を通じて東西の文化が出合うことで、新たな芸術のスタイルが生みだされた。ヨーロッパ人にとっての興味は、これまで封じ込められていた日本の芸術のみならず、初めて見る日本人そのものにも注がれたようである。
日本の浮世絵や芸術作品のもつ美しさに各国の芸術家達が大きな影響を受け、ヨーロッパでは日本に対する憧れから“日本趣味”という新たな作風が芽生えた。フランスの画家クロード・モネも日本に魅了された芸術家の一人で、浮世絵を熱心に収集し、フランス風の庭には日本庭園をも設えていたそうである。
〇アール・ヌーヴォの旗手、ガラス工芸などで高名なフランスのエミール・ガレは、団扇をモチーフにした花器「四団扇花器」を残している。愛らしい木の実をつけた植物等が描かれた2枚の団扇を、やや横長の「X」型になるよう柄のところをクロスさせ、ちょうど鈴虫が羽を合せるよう僅かに重なりあわせた形をワンセットにして表裏に配置した花器である。団扇と団扇で挟むように花が生けられるようになっている粋な作品である。
形状の美しさや様々な機能から時代を超えて愛されてきた団扇や扇子。この先どんなに便利な道具が出てきても、先人が残してくれた文化的な財産がもつ価値の高さを忘れることなく、大切にしていきたいものである。

(大森圭子)