2013年9月号(第59巻9号)

〇夏も終わりに近い週末、ゆるめの散策と中華料理をお目当てに横浜へと足をのばした。
「風をはらんだヨットの帆」を形どったホテルでビュッフェ形式の昼食をとり、その後、近くの桟橋から出る船に乗って横浜港へ。出帆から暫くして少し沖に出ると、乗務員が透明なカップに入ったパンくずを持ってやってきた。希望があれば甲板に出てかもめのエサやり体験ができるという。私は見物客となり見ていると、どこから集まってきたのかと驚くほどのカモメの群れが、容赦なく突き進む船をわれ先にと取り巻き、手をのばせば足をつかめるほどの距離で水面に落ちたパンくずの争奪戦を繰り広げている。荒々しく飛び交うその様子は、餌が切れればヒッチコック映画の「鳥」さながらに、怒りをむき出しにして人を襲うのではないか、と一瞬恐怖がよぎるほどの迫力であった。
〇小一時間ほどのクルーズを終え下船した後は、行きたかった横浜美術館での「プーシキン美術館展フランス絵画300年」が、まだ会期中であることを教わり、観に行く幸運に恵まれた。17世紀から20世紀までのフランス絵画300年の歴史を、ロシアモスクワにあるプーシキン美術館所蔵の名画でたどることをテーマにした展覧会である。プーシキン美術館は創立からおよそ100年の歴史をもつ世界有数の美術館で、女帝エカテリーナ2世や産業革命で大富豪となったセルゲイ・シチューキンやイワン・モロゾフといった眼識のある大企業家たちが私財を投じて蒐集した、優れたフランス絵画の膨大なコレクションが収蔵されている。
横浜での展示も終盤に近い週末とあって人が多く、一つの絵の前でゆっくりと足を止めることは出来なかったものの、惜しみなく飾られた、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホといった画家たちの66点の名画のうち半数が日本初公開ということもあって、巨匠たちの新たな一面を垣間見たように思えた。
中でも面白かったのは、ファン・ゴッホが描いた「医師レーの肖像」(1889年)である。自らの耳を切り、神経症の発作を起こして南フランスアルルの病院に入院したゴッホは、退院後、再起をかけた新たな作風で、世話になったインターンの医師レーの肖像画を描いた。ゴッホは感謝の気持ちを込めてこの作品をレー氏に送ったが、当の本人とその母親はこの絵が気に入らず、鶏小屋の穴を塞ぐためにこの絵を使い、ゴッホの死後に安価で売り払ったという。その後、幾つかの画廊を経るうちに、この絵がシチューキンの目に留った。
レー氏の手元にあればどうなっていたことやら。何が気に入らなかったのか分からないが、よくぞ手放してくれたものである。

(大森圭子)