2013年9月号(第59巻9号)

健康に生きるために(9)

追跡

728mm×515mm

〇運動法
子供の頃、私は体育が嫌いでした。小学生の頃は体育の前になるとお腹が痛くなりました。高校の時は放送部や美術部に所属し、その特権をフルに活用して公欠ばかり取っていたので、わずか2時間のサボリが50%となって単位を落としました。こんな運動嫌いな私が運動のことを言うのですから、よっぽど重要なのだと思って下さい。
運動はまず歩くことです。ジョギングは、膝に静止時の数倍も負担がかかりますから、筋力のある慣れた人だけにして下さい。歩数計を買って1日1万歩目標です。一日何回かに分けて歩いても大丈夫ですが、1回10分以上は持続して歩いた方が有効です。早足で歩きますが隣の人と会話できる程度です。歩くことで有酸素運動となり、内臓脂肪が減ります。腰部の深部筋が鍛えられることで腰椎がしっかりと支えられて姿勢が良くなり腰痛が出にくくなります。下半身の筋肉は全身の7割を占め、この筋肉が増えることで血中の脂肪が燃えやすくなり、熱産生が増えて体温が上昇し、さらに全身の血流も改善されます。
TVで元気な老人の特集をやると、皆一日中野良仕事をし家の中でも常に動き回っています。歩くことが健康寿命を伸ばす鍵だと思います。
歩行だけでは上半身の筋肉が付きにくいので、腕立てふせやダンベル体操を追加すると良いでしょう。
年を重ねてくると、関節が固くなってくることを実感します。しばらくイスに座って立ち上がると、膝が伸びなかったり、痛みを覚えることがありますよね。これは、同じ姿勢でいることで血管が圧迫されて血流が悪くなったためです。これを防ぐには、ながらストレッチをやることです。常に体のどこかを動かし、5分以上は同じ姿勢をしないようにします。詳しくは次回に。
MRIによる内臓脂肪検査をしていると、腰部の筋肉にも目がいきます。腰椎の左右には腸腰筋、背部には脊柱起立筋があって、腰椎を守って支えています。10代の頃は腰のまわりは筋肉だらけです。ところが高齢になるとこの筋肉がどんどん薄くなり、筋線維の間は脂肪に置き変わって筋肉の働きが失なわれていきます。歩くのがやっとのような方は、腸腰筋が、紙のように薄くなっています。
毎日歩いている方は高齢者でも腰部の筋肉がしっかりしており、健康寿命を伸ばすためには筋力を付けなくてはいけないと実感させられました。
ショックだったのは、20代女性の腰椎MRIを見た時で、腸腰筋はほどほどにあったのですが、脊柱起立筋の下に続く棘筋と言う筋肉内がほとんど脂肪に置き変わっていました。当時、街中のどこにでも座り込む若者が話題になっていましたが、この筋肉量では座り込んでしまうのも無理ないかと思いました。
筋肉を維持するためには姿勢良く、キビキビと歩くことです。1日1万歩、がんばりましょう。

〇今月の作品:追跡
この作品は二科展デザイン部のB部門に出すために作ったものです。残念ながらこれは入選しませんでしたが。
伊豆の公園で、気持ち悪いほどに餌を求めて集まって来るコイの様子からこの作品を考えました。魚は紙粘土を使って立体的に作ってあります。唇は黄色く塗って強調しました。下部の中心に小さな魚の背中が見えていますが、これは本物のルアーで、魚たちはこれを追いかけている構図となっています。このあたりがちょっと分かりづらかったのが、敗因かもしれません。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。