2013年7月号(第59巻7号)

〇東京では、夏真っ盛りのこの時期にしては曇天の日も多く、早く引き揚げ過ぎた梅雨が舞い戻ったかのようだ。日本各地では洪水の被害が相次ぎ、連日の報道で、水害に遭われた方が黙々と後片付けをしている姿に胸が痛む。この先も不安定な大気の状態が続くといい、いつ治まるとも分からない状況に、四季の営みがほぼ変りなく繰り返されてきたことは当然ではなかったこと、自然の為すことは黙って受け入れるしかないせつなさをまたしても思い知らされた。今は、これ以上の被害が出ないことを祈るばかりである。
〇この夏は、なぜか近所のカラスがひときわ騒がしく、仲間同士呼び合う声や、わが家の屋根の上をあちこち歩き回る音が反響して思わぬ大きな音となり、早朝の眠りを妨げる。
メアリー・ノートンの小説「床下の小人たち」はひっそりと人家の床下に住み、あたたかな暮らしを続ける小人の家族の物語。小さな穴から抜け出ては、命がけで人間が使う小物や食べ物を拝借して暮らしている。壁にかけられた切手の絵画、マッチ箱でできたタンス、小さな糸巻きに腰掛けた小人たちが家族団らんのひとときを過ごしている表紙のイラストは、当時幼かった私の想像力をかきたて、ひょっとしたら自分の家にも小人が住んでいるのでは、と小さな物が無くなってはいないか期待半分に確かめたくなったものだ。それに比べて、屋根の上をわが物顔で歩きまわる黒い居候はなんと可愛げのないことか。
睡眠の状態を表わす言葉に「泥のように眠る」がある。ここでいう「泥」は土のどろではない。中国では空想上の生物に「泥(でい)」と呼ばれるものがあり、日頃は南海に住み生活しているが、骨がないため、ひとたび海からあがると急にだらりとする。この様子が酒に酔って正体をなくしたり、疲れ果てて眠る姿と重なって、「泥酔」や「泥のように眠る」という言葉が生まれたのだそうだ。
ただですら眠りの浅いこの季節、カラスなどに邪魔されず、「泥」のようにぐっすり眠りたいものである。
〇徒然草には、「一日のうちに、飲食おんじき(飲食いんしょくのこと)、便利(便通のこと)、すいめん(睡眠のこと)、言ごん語ご(話すこと)、行歩ぎょうぶ(歩くこと)、止やむことを得ずして、多くの時を失ふ」がある。
これらのやむを得ないことで、多くの時間をつぶしていることは今の世でも変らない。
ナポレオンが日に3時間しか眠らなかった話は有名だが、日本にも、本居宣長が13日13夜「古事記伝(「古事記」を解析した書)」を書き続けたという話が残っている。英雄を讃えるうちに彼らが神格的存在となり、このような大袈裟な噂が定着したと思われる。しかし、それほどまでに何かに没頭して大業を成し遂げたことは確かである。
フランスの哲学者ベルグソンは、「眠ること、それは無関心になることである」と言っている。逆にいえば、起きていても無関心であれば眠っているのと変りは無いということか?ちょっとこじつけ過ぎだろうか。

(大森圭子)