2013年7月号(第59巻7号)

健康に生きるために(7)

木洩れ日

728mm×515mm

〇体温を上げる
自律神経免疫療法では、体温を上げることを重視します。体温が1度上昇すると免疫力は数十%上がると言われています。最近は風邪をひいても解熱剤を処方せず、体温を下げないDr.も増えているようですが、この理由によるものと思います。
体温の日内変動は、一般に起床時が最も低く、夕方にかけて上昇します。差の激しい人は1度近く上昇するようです。起床時の体温が36度を越えるのが目標です。低い人ですと朝方34度台しかない人もいます。最近は、本来体温が高いはずの子供にも低体温の子がいるようで、ビックリさせられます。
それでは、体温を上げるにはどうしたらよいでしょう。食べ物ではまず、冷えたものを摂らないことです。夏でも水より冷えたものは避けるようにします。氷などはとんでもない話です。でも最近の猛暑の夏にはこれではやりきれないので、暑がりで熱症の体質の人は多少は大丈夫だと思います。でも冷たいものを摂ったら腹巻をしてお腹は冷やさない事です。
あとは、体を温めるショウガ、ニンニク、カプサイシンなどを多く摂り、スイカ、キュウリ、トマト、ナスなど体を冷やす食材に気を付けます。サラダも体を冷やすので、温野菜を組み合わせると良いでしょう。旬の野菜を摂る様にすることです。
熱を産生するには、筋肉が必要です。特に下半身の筋肉を増やしましょう。運動も血流が増えて熱の循環に有用です。適度な歩行とストレッチが必須です。
いくらがんばっても自分の体温以上に暖める事はできません。ですからさらに行うのは、外から体温以上の熱を加えることです。お風呂なら半身浴が有用です。体を冷やさない服装をし、冷え症の人は夏でも暖かくしましょう。ファッションより健康優先です。とくに冷房に注意。冷房の前で仕事をしている人などは冬より冷えている人さえいます。ホッカイロも手軽で良いですが、湯タンポは熱量も多く、特にお推めです。自律神経免疫療法では、ウエットスーツ素材の柔らかい湯たんぽを治療の際にも使用し、さらに患者さんにも購入してもらって身体を温めてもらいました。湯たんぽによる治療を専門にしているDr.もいて、365日24時間湯たんぽを使うのが有効だそうです。私も湯たんぽは愛用していますが、さすがに夏は腹巻だけにしています。
体温を上げることは大変で、年単位かかるのが普通です。一生続けるつもりで、のんびりやるのが長続きのコツです。最近は体温を上げることを主旨にした本も多く出ています。参考にしてみて下さい。

〇今月の作品:木洩れ日
この作品は実は立体ではありません。立体なのは額の方で、中に蛍光灯が入ったライトボックスになっています。この額が中古で手に入ったので、この中にはめ込むように絵を描きました。町田市の公園で逆光に輝く植物を題材にしています。アクリルとパステルで描いていますが、暗く表現する所はアクリルを厚く塗り、輝く所はパステルにしてさらに紙を削って薄くしてあります。電気を点けると太陽の当たった部分が燦燦と輝くようになっています。
表紙写真は一応電気を点けた状態で撮ってありますが、わかりますかね。規格外なので公募展に出すわけにもいかず、今までに一度だけ開催した個展で展示しました。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。