2012年6月号(第58巻6号)

〇梅雨の季節である。来る日も来る日も雨が降るか曇り空。あまりの湿度の高さに、そのうち街中が巨大な水彩パレットのようになり、景色をいろどる色という色がそれぞれに滲み出て、輪郭がぼんやりと崩れてしまうのではないかと思われるほどである。
早くも今年も半分が過ぎてしまうことに驚かされる季節でもあり、永井荷風の小説「つゆのあとさき」のタイトルを借りれば、雨にやりこめられた室内で思いがけず静かな時間に恵まれたなら、梅雨の後先の過ごし方を思う時間に費やすのも悪くない。
〇ある休日、植物にとって恵みの雨が降り注ぐ中、庭の狭さゆえ心ならずも屋根の下に置かれた蘇そ鉄てつにたっぷりと水やりをしていたら、格好な蚊の餌食となってしまった。俗説どおり“蚊に好かれる人”という分類があるならば、どうやら私もこの人種に当たるようで、室内に蚊が居ようものなら私が連れてきたと非難されることもある。
蚊に刺されない方法には、ピレスロイド系などの殺虫剤やDEETという忌避剤などを使用して身を守るほか、シトロネラやユーカリの精油を使った天然成分の殺虫剤も有効とされる。アロマテラピー効果も期待できる精油入りキャンドルも売られており、私も一つ青磁色をした涼しげなシトロネラオイル入りのキャンドルを買った。
すっかり古い時代の話になってしまったが、私の幼い頃の蚊除けといえば、蚊取り線香を焚き、蚊帳を吊った部屋に寝ることであった。蚊帳をくぐると部屋全体に萌葱色の靄もやがかかったように見え、ほどよく閉ざされた幻想的な空間を家族で共有していることだけで何か嬉しかった。
その頃の思い出から、蚊帳は夜ごとに吊るし朝ごとに片付けるものと思っていたが、古くは竹竿に吊るし、使わない昼間は方寄せておくものであったそうだ。そのため初めて蚊帳を吊るす「吊るし染め」の日は今より重い意味を持ち4月の吉日が良いと決められていた。逆に「五月蚊帳」といって5月になって蚊帳を吊るすことは不吉とされた。
〇江戸時代には蚊帳商の多くが日本橋に店を構え、そこから手代と雇人とが二人ひと組になって市中を廻り蚊帳を売り歩く「蚊帳売」という商売があった。二人はきまって菅笠をかぶり、蚊帳を担ぐのは美声の雇人で、約半丁(約55メートル)もの長い距離で「萌葱の蚊帳ァ~」の売詞(うりことば)を声を引いて一唱したそうである。

留守中も釣り放したる紙帳(しちょう)かな  一茶

麻を編んだ蚊帳は高級なため、貧しい者は和紙で作った紙帳と呼ばれる蚊帳を使っていた。これほどまでにゆっくりと蚊帳売が歩く理由は、当時高価な蚊帳を買うかどうか腹を決めるまでの時間に合わせたものであったろうか。

(大森圭子)