2008年3月号(第54巻3号)

〇ぶり返す寒さ、不規則な雨、粉塵や花粉をはらむ風の激しさに辟易するこの頃であるが、そのぶん、 ぽっかりと訪れるあたたかい春の日は喜びもひとしおである。気がつけば小鳥や虫などの小さな生物や生えかけの柔らかな葉や花も、同じように春の日に一息ついているように見えて微笑ましい。

菜畑に花見貌なる雀哉  芭蕉

〇混雑時からはずれた時間に中華料理店に滑り込み、人影のない静かな店内に腰を落ち着けた。香ばしく揚げられた“魚の甘酢かけ”の魚片を頬張り幸せに浸っていたら、退屈そうな黒服のマネージャーが物知り顔で傍へきて「その魚はマトウダイですよ」と言う。旬な素材ということかな、と曖昧な反応をしていたら、紙ナプキンを一枚とり出し、やけに達筆な字で「的鯛」と書いてくれた。そのまま読めば「マトダイ」である。「はぁ、なぜこんな字を書くのでしょう?」と顔を上げると、謎かけをした御伽噺の仙人さながらに黒服のマネージャーは既に遠ざかっていた。あとで調べると、魚体のほぼ中心にある大きめの黒い円斑が的のように見えることからこの名がついているとか。英名でも“Target dory”である。また、顔が馬の頭に似ていることから「馬頭鯛(マトウダイ・バトウダイ)」と呼ばれることもあるらしい。マトウダイの円斑は、神殿税を支払うよう、キリストの指示で使徒聖ペテロが釣ったマトウダイの口から出た銀貨の形であるとか、この魚の口から銀貨を取り出した時についたペテロの親指の跡であるなどともいわれ、神聖な生物としても扱われているようだ。

〇……ニシンは身を二つに裂いて保存する二身から、アナゴは日中岩などの穴から顔だけを出していることから、カツオは堅くして保存する堅魚かたうおから……等々さまざまな魚名の由来を知った。また、てっきり日本語と思っていたイクラはロシア語で魚卵の意、明太子の明太は韓国語でスケソウダラの意味であることも私には驚きであった。黒服の仙人の導きで私もまた御伽噺の主人公さながらに僅かながらも学を修めたようである。

(大森圭子)