2007年2月号(第53巻2号)

〇すっきりとした青空が広がる日曜、東京・浅草にある創業百数十年の老舗ですき焼きを食べようと誘われ、旺盛な食欲を引きつれて勇んで出かけた。まずは浅草寺にお参りをすませ、観光客向けの商店が賑やかに立ち並ぶひさご通りをひやかしながら店へと辿り付いた。ガラガラと引き戸を開けると、玄関番代わりの大黒様、その脇に少々くたびれた平胴太鼓が吊り下げられている。出てきた店の人に履物を預け下足札を受け取ると、どうやら奥へ客の人数を知らせるために太鼓がドンドンと打ち鳴らされ、漸くしろじろとした蛍光灯が輝くお座敷に案内された。人気店とあって鍋、割下、薬缶(さし湯入り)、牛肉と添え物類の皿がやや幅の狭いテーブルにやつぎばやに並べられ、その勢いに圧されるように早速食事を開始した。さしの多い牛肉を堪能し、豆腐、しらたき、そして我が家のすき焼きと比べ、肉の割には思いのほか少ない春菊サマサマ、葱サマサマを有り難くいただいた。

〇すき焼きの名前の由来は、牛の肉を薄くすいた「すき身」からきたという節と、室町時代に伝来した「南蛮焼」に端を発した料理で、使い古しの「鋤(すき)」を火にかけ、その上で豆油に漬け込んだ鴨や鹿の肉を炒り焼きする料理「鋤焼」を語源とする節がある。漢字では「寿喜焼き」という験担(げんかつ)ぎの当て字もあるが、通常は「鋤焼き」と書かれている。卓袱(しっぽく)料理は1つのテーブルを囲んで鍋をつつき合う中国料理が日本やオランダの影響を受けて変化したものといわれるが、この卓袱の影響を受けて「鋤焼」がやがて鍋で料理されるようになったともいわれている。

〇わが国では、仏教が伝わった奈良時代、平安初期には殺生と肉食はさし止められ肉食文化が衰えたが、幕末・明治になると諸外国の影響で肉食の風習が再び栄え始めた。明治初期に立て続けに浅草に牛鍋屋が登場した頃の假名垣魯文(かながきろぶん)の戯作「牛店雑談 安愚楽鍋(うしやざうだん あぐらなべ)」(明治4年)には「士農工商老若男女。賢愚貧福おしなべて。牛鍋(うしなべ)食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)と鳥なき郷の蝙蝠傘」とある。この頃の肉にはかなり臭いもあったようなのだが、「ひらけぬやつ」と言われるのは小癪であると、ときに痩せ我慢も必要であったかもしれない。

(大森圭子)