2019年11月号(第65巻11号)

認知症への恐怖

独)国立病院機構 金沢医療センター 臨床検査科
小西 奎子

定年後、週2・3日働く優雅な生活は、突然の脳動脈瘤破裂で終止符を打った。人と会話中の出来ごとであり、救急車で運ばれて、速やかに開頭術を受け、私は一命を取り止めた。
今は、何ごとも少し時間を要するが、手紙や日記を書くことも出来るまでに回復した。しかし、人格の破壊を伴うこの病気・認知症の将来に大きな恐怖を抱いている。
私は、通信教育を利用して、宇宙や、細胞レベルのミクロ世界の知見を楽しく学んで来た。そして今は『認知症』について勉強中であり、客観的に今と今後の自分を見ようとしている。精神科医の友人の賀状に一筆添えられた『認知症』の言葉に動かされてのことである。加齢に伴なう認知機能の低下『ぼけ』をさして使われる言葉でもあるが、精神科医が使った言葉故に、本気で彼のことを心配し、『認知症』について勉強を始めたのである。
それから六年の年月が過ぎた。そして、おびえる私の血管性認知症とのつきあいにも、最近では、人並の発症年齢になったと思えて、恐怖はうすれて来た。しかし、人格の崩壊を伴うこの病気には、やはり恐怖を感じる。
『自分が自分であり続けたい。死ぬその時まで自己を認識出来る状態でありたい。それが生存・生きている証拠であると思うから』
全国から『花のたより』がきかれる春爛漫の空の下、生きている実感を全身で感じている今日今頃である。