2019年8月号(第65巻8号)

尋ね人:長崎医専の学生さん(続)

NPO法人 東京臨床検査医学センター
渡辺 清明

私は5歳の1945年の夏に北朝鮮の平壌で終戦を迎えたが、当時父は戦地におり、残されたのは母と一つ年下の弟の3人であった。翌年6月、我々と同様な立場にある集団がソ連の将校を買収して北朝鮮から脱出する事になった。ある日の早朝に、我々約50名はソ連兵が用意した軍用トラックの荷台に静かに乗せられた。数時間が経った後に、我々はトラックから降ろされ、その後夕方まで歩き続け38度線の北数キロの地点に辿り着いた。ここから、夜半に38度線を突破するのである。計画ではこの付近は新月の干潮時に陸地から4キロくらい海が引くので、新月の暗い夜に海岸のすれすれの所を渡る事になっていた。我々は深夜まで休憩し、やがて密かに人に認知される事のないように真っ暗闇の海に沿ってゆっくり歩き始めた。どれくらい経ったか定かでないが、突然陸側から漆黒の闇をついて鉄砲が乱射されてきた。ソ連兵が脱出する難民めがけて発砲したのである。行く手の左側に青白い閃光がかなりの数見えた。我々は伏せたり、歩いたりして38度線に向かっていった。私は母に手を引かれていたが、突然一人になってしまい、朧気に見える人影を目指して歩いていた。そこに一つの手が差し伸べられた。母の知り合いのトッコチャンである。彼女は私の手を引っ張って歩いた。しかし、ソ連兵の銃弾が再び矢のように飛んできた。それがトッコチャンに当たったのである。倒れた彼女は確か「私はいいから逃げなさい」と言ったように記憶しているが、混乱した私は正確には覚えていない。私はただ一人そこから命からがら生きながらえて前行く人影を追って歩き、大きな網をくぐったのを覚えている。それが38度線のマークであったのかもしれない。その後は全く銃弾を浴びる事はなかった。暫くして母が手をとって呉れ、我々3人は無事に韓国側に脱出した。しかし、一行の約半分がここで死亡した。
その後38度線のすぐ南の仁川(じんせん)にたどり着き、その後数日の話は先の随筆にしたためた通りであるので、これは続編でなく前編である。