2019年1月号(第65巻1号)

「小さい旅、大きい旅」その後

横浜南共済病院 臨床検査科
岡部 紘明

20年前熊本に在住時代、モダンメデイアから執筆の依頼を受け、「小さい旅、大きい旅」と題して夏の真っ盛り、天草・熊本を「旅」した「五足の靴」の紹介をした。この紀行文は「東京26新聞」に与謝野寛(鉄幹35才)、他無名の20代の大田正夫(木下杢太郎)、吉井勇、北原隆吉(白秋)、平野万里の五人が交互に執筆したものだが、実はこれは幻の旅行で知る人がいなかった。吉井が野田宇太郎の「パンの会」に、この九州旅行を紹介し、昭和14年頃濱名が知り吉井との文通で「五足の靴」の意義を問い直した。九州旅行の生き証人は吉井だけで、昭和28年元旦の朝日新聞に「船出」として、日本の新しい国際社会への出発を読んだ中の一首に、「この船出われの心の船出とぞ思いあたりぬ天草にして」と、この船出は九州旅行での「天草の歌」が一生を定めた旅に外ならないと思った、と吉井は述懐している。私の在京時代の友人に天草出身のT氏がいた。T氏の父君は教育者で生前、地元出身の「濱名志松先生の五足の靴・資料館」の館長を一時期努めていた。T氏に、最近の天草事情を聴いてみた。早速報告が来た。モダンメディアでの天草紹介ありがとうございます。明治7年大江に粗末な教会ができ、後ガルニエ神父(パーテルさんと慕われていました)が明治18年に来日した。ロマネスク様式の白亜の天主堂は神父の自費で建立、姪のソフィー・ルイズ・ガルニエが、画学生時代の作品を、大江教会の献堂を記念して寄贈した。パーテルさんは子どものように喜び、絵とともに送られてきたベレー帽も大変気に入り、いつも身につけていた。孤児院も作り、宗旨の如何に関らず困窮者に金を与え、生涯天草弁で話をしていたとの事。若き詩人達は、粗服の神父に会い、遥かな南蛮時代への回顧となったのでしょう。天主堂の傍らに、吉井の歌碑がある。「白秋と泊りし天草の宿は伴天連の宿」。もう一つの情報は2017.7.21の日経新聞に鉄川與助の記事です。ゴシック建築の崎津の天主堂、海側の隠れ切支丹の歴史であります。﨑津の大工により最初木造教会堂が建設されたが、後に来た宣教師の指導で、鉄川与助が再建した。キリスト教への入信も勧められたが、仏教徒で通した。最期に、T氏から;島原・天草の諸道(司馬遼太郎;街道をゆく1717)に、江戸期、隣村の高浜の庄屋上田家が、大坂夏の陣の真田の残党との記述があり、先祖も真田の残党との言い伝えです。200年ほど前、この大江村に先祖様がいたと思うと、目からうろこです。母方の田中家が、大江村村長時代、パーテルさんの話を、よく聞きました。いまさらながら、百数十年前に、極貧の田舎に、フランスから布教に来たことに驚愕と感動をしました。お陰で、天草への回帰に目覚め、ご先祖様を大事に、これからの人生を送りたいと思っております。機会がありましたら、また是非、天草へご一緒できればと念願しております、と。目的の有る旅も、ない旅も、帰るところがあるのは幸せですね!現在、世界遺産として「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」とし、「天草の崎津集落」も登録されています。