2014年2月号(第60巻2号)

東京湾岸で経験した東日本大地震から3年

東海大学医学部 基盤診療学系臨床検査学 教授
宮地 勇人

東日本大地震から3 年経過した今も大震災は終わっていない。25 万人以上の方々が避難生活をおくっている。原子力発電所での汚染水の漏出は続いている。東日本大地震の日、小生は東京湾岸の晴海にいた。学術セミナー会場に向かって、地下鉄の最寄り駅から、晴海通りを歩いていた14 時50 分頃、強い揺れに襲われた。東京の震度は公表では5 強であるが、地盤の弱い晴海埠頭の揺れはそれ以上であったと想定される。不案内の土地での特別の体験は、あまりにも異様で現実感が乏しい。以来、あの時の自分の足跡を確認したいと考えていた。あれから3 年、再び同地を訪ねる機会に恵まれた。学会有志の企画である恒例の納涼大江戸下町ツアーにて晴海埠頭から「もんじゃ船」に乗ることとなった。驚いたことに、船着き場は、あの日の学術セミナー会場となったビルの斜迎いであった。ビルは連結した3 つの近代的な高層ビルの1 つで、そこから名付けられたトリトンスクエアにある。月島のもんじゃ焼き通りから船着き場に向かって、偶然にも、大地震に遭遇した晴海通りを同じ方向に歩くこととなった。最寄りの地下鉄の駅、晴海通り沿いのマンションを見ながら、トリトンブリッジを渡り晴海埠頭のトリトンスクエアへと同じ順路を辿った。2 回目の訪問であったが、脳裏に焼き付いた当時の光景が不思議と鮮明に甦り、目の前の平然とした光景と奇妙に重なった。暑い中、船に乗る前の待ち時間は皆には歓迎されなかったが、小生にはトリトンスクエアに立寄り、当時を振り返る貴重な時間となった。トリトンスクエアのメインロビーには、地震直後に携帯電話が不通のため、長蛇の列となった公衆電話が今も整然と並ぶ。唯一列が出来なかったテレホンカード専用の電話は当時と同様に設置されていた。それ以来、備えとしてテレホンカードは絶えず携帯している。あの日、公共の交通機関再開を待つ間、情報交換の場となった和食レストランも当時と同様であった。そこから見渡せる不思議なほど落ち着いた夜景も同様であった。もんじゃ船は出航後、レインボーブリッジをくぐり、お台場沖に停泊した。レインボーブリッジは橋脚が初めて虹色にライトアップされた記念すべき夜であった。お台場の美しい夜景を見ながら舌鼓を打った。あの異様な経験をした同じ場所なのか、割り切れない感があった。
今回、大地震に遭遇した地を再訪問することで、大地震に遭遇した状況を再確認でき、その異様な経験と現実の空間が整理できた。当時は崩壊するかに思えた建物や橋は何も無かったように存在する。あの日は煙が立ち上がっていたものの、大震災と全く無縁であったかのように落ち着いた湾岸の光景は、大震災が終わっていない被災地とは極めて対照的である。あの大災害を総括しきれていない自分は、被災した東北3 県の現状と向い合う上で大切な日となった。昨年岩手県の被災地を本誌の取材で訪問した。今後も被災地の取材を計画中である。両極端の現実があることを認識した上で、被災地を再度訪問し、大震災に向い合いたい。