2013年10月号(第59巻10号)

臨床微生物における MALDI-TOF MS の本当の意義

順天堂大学医学部 感染制御科学・
細菌学・総合診療科学 先任准教授
菊池 賢

かつてradioimmunoassay(RIA)という主にホルモン測定に利用された測定系があった。非常に高感度で特異性が高く、内分泌学の飛躍的な発展はこの技術開発なしには実現されなかった。残念ながら今は大半がサンドイッチELISAなどに置き換わり、RIAは臨床現場の一線からは退いた感がある。
このRIAの開発で1977年にノーベル医学・生理学賞を受賞したRosalyn Yalowが遺した言葉に“New truthsbecome evident when new tools become available.”がある。内分泌学の発展に寄与した彼女の自負と共に、breakthroughに必要な新技術開発を彼女がどのように意識していたかを痛感させられる。
近年の臨床微生物学での“new tools”の筆頭に挙げられるのは間違いなくMALDI-TOF MSであろう。MALDITOFMSによる微生物同定の特異性は遺伝子同定に匹敵し、迅速性、経済性、簡便性は従来の生化学的手法を遥かに凌駕する。おそらく数年の間に微生物検査室での同定の主体はMALDI-TOF MSに置き換わることだろう。
しかし、MALDI-TOF MSの臨床微生物への導入の本当の意義は、別のところにあるのではないだろうか。微生物検査の検体は無菌部位から出たものばかりではない。鼻腔、口腔、咽頭、喀痰、便、尿など、常在菌が存在する検体では、培地上に生えた常在菌をかき分けて、同定すべき病原菌を選び出す必要がある。臨床微生物学や感染症学は「病原微生物学」として発展してきた。その一方で我々は常在菌については驚く程何も知らない。そもそも「常在菌」と「病原菌」をどうやって分けられるのか。「常在菌」と顔に書いている訳ではない。「常在菌とされている」というのが的確な表現だろうと思う。上気道検体では様々な「常在菌」が生えてくる。誰もその一つ一つを同定しようなどとは考えてこなかった。これらを片っ端から調べることなど、時間的、費用的、労力的にも無理だった。でもMALDI-TOF MSなら可能なのだ。MALDI-TOFMSで一番明らかになることは、これまでに注目されず、無視され続けてきた「常在菌」の実態ではないか。新たなMALDI-TOF MSのデータベースを作りながら、次々と明らかになる“new truth”にほくそ笑む今日この頃である。