2013年10月号(第59巻10号)

健康に生きるために(10)

奔流

728mm×515mm

〇ながらストレッチ
運動の話の時にもストレッチについて少し触れましたが、非常に重要です。人間の身体は少しでも静止していると、すぐに血流が悪くなって来ます。例えば下肢の静脈は筋肉のポンプ作用によって血液を心臓に環流させます。長時間座ったまま、あるいは立ったままでいると循環が悪くなって下肢がむくんで来ます。長時間のフライトで起こるエコノミー症候群も水分を控えて同じ姿勢でいるので、血流が悪くなってついには血栓が出来てしまうものです。
しかし、ストレッチをやろうと意気込んでジムへ通い始めても長期間持続できる方はごく僅かです。誰でも長く続けられるのは「ながらストレッチ」です。「〇〇しながら」体を動かせば良いのです。
例えば、ベットの中で横になりながら、歯磨きをしながら、歩きながら、電車やバスを待ちながら、電車に揺られながら、仕事で座りながら、立ちながら、その他沢山のシチュエーションがあると思います。要は出来るだけ静止しないこと、身体を動かして血流を良くすること、更には筋肉を付けることです。
朝、歯みがきしながら、爪先き立ち、スクワット、腰回しなど出来ます。激しく動かすよりも、ゆっくりと筋肉を意識しながらやる方が効果がでます。
椅子に座っている時は、貧乏ゆすりです。周囲に人がいる時は迷惑になるので控えた方が良いですが、一人だったら盛大にやりましょう。これだけでもかなり血流は改善するようです。
朝方調子の悪い方は、フトンの中でストレッチです。私も毎朝起床前10 分間やっています。寝ている間は体は一種の仮死状態ですから、この体を一気に日常モードに持って行くのはとても負担の掛かることです。ですから、血液を回すために血圧が上がるのは、しごく当然の身体の機能なのです。逆に上がらない方は脳の血流が足りず、めまいや立ちくらみが出てしまうのでしょう。まず、足を上げて自転車こぎを100 回。手足を上げてブルブル震わせるゴキブリ体操。肩甲骨が離れる程度までの軽い腹筋運動。手足の伸び。腰から下を捻る腰痛体操。腕立ては体を腹ばいにするのが面倒なら上向きのままでやります。TV のスイッチを入れてニュース、天気予報を見ながらやれば苦になりません。これのお陰で私の腰痛はかなり改善しました。これで朝の目覚めは快適間違いなしです。あらゆる場面で体を動かしましょう。
ただし、現在どこか痛い人は要注意です。痛みのある所は冷えていて固くなっていることが多く、これを無理して動かすとかえって悪くします。必ず温めて関節と筋肉を柔らかくしてから、ゆつくりと行って下さい。

〇今月の作品:奔流
この作品は二科展デザイン部のB 部門に出すために作ったものですが、残念ながら入選しませんでした。
沢山の魚がいるのがわかると思いますが、これらは針を取ったルアーや粘土で作った魚です。ざっと100 尾以上はいると思います。下半分は魚の尾びれから出ている波しぶきを表現していますが、この元になっているのは草の根っ子です。秋に庭の草取りをしていて大量の根が取れたので、これを乾燥させ、粘土をまぶして色を塗って作りました。右上は岩を取り巻く急流を意識して、水しぶきを粘土で作り、岩の上は透明樹脂を固めて水を表現してあります。立体なので、横の板には穴を幾つか空け、横からも魚の姿を眺められるようにしてあります。
色々苦労はしているのですが、自己満足に陥ってしまい、主題がはっきりしなくなってしまったのが敗因だと思われます。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。