2013年4月号(第59巻4号)

不器用のすすめ

北海道大学保健科学研究院病態解析学分野 教授
山口 博之

どういうわけかいまだにデジタル時計が腕になじまない。理由は分からないがイメージをたよりに直感的にものごとを判断するのが好きなようである。だからという訳ではないが所帯を持った当初、完成した料理イメージから、調理方法をひねり出す作業がとても楽しかった。旨くできたときの家族からの賞賛はなによりの褒美だが、残念ながら当時の勝率は3割にも満たなかったに違いない。あれから15年、だしの取り方から味付け迄、清書を紐解き勉強し、今では冷蔵庫の残り物からまずまずのものを作り出す自信がついた。思いがけず体に染みついたワザは大きな財産であるが、決して好きだから続けられた訳ではない。だからといって理屈とかちゃんと説明できるようなものは何一つ思いつかない。
やりたいことが見つけられなかったドジでグズ。そんな就職活動を一切しない暢気者を見るに見かねて卒研の指導教授だった善養寺浩先生が、大学に残れるように工面してくれた。ありがたい話である。あれから早いもので30年、こんなに長く続けていることを善養寺先生が空の上でおおいに驚いているに違いない。決して人に話せるような立派な志があった訳ではない。未熟もの故、良くしかられ周りと衝突したが、どういう訳か打たれ強いねちっこい雑草の様な性格が幸いし、なんとかかんとか乗り越えてきただけのことである。石の上にも3年どころではない、未だに見つけられないことばかりである。ただ、不完全な思いを頭の中に残し続けることで、いつの日か、“ハッ”と何かに気づく日が来るはずとポジティブに考えられるようになった。
駆け出しの実験助手の頃、研究室に良く泊まった。実験台の上に丸めた白衣を枕に即席で作った寝床は決して心地よいものではなかったがとても懐かしい。確かに実験はしていたが、決して寝る暇を惜しんでデータを取っていたわけではなく、なんとなくそんなことをしていたように記憶している。ただあの時代一緒にそうやって過ごした仲間は、以心伝心、今でも良き仲間でありかけがえのないものである。
若い世代がさまざまなことに対して淡白になってきている。ギラギラしたものが良いことばかりとは思わないが、言葉で説明できない、何か熱いものが、人を突き動かすのに必要であることを、忘れかけているように思う。目標としていた到達点が変わることをことのほか嫌う。遠いところばかり見ようとし、足下のケアはどうでもいいといった具合に情けないほどにお粗末である。今の瞬間があるからこそ次の瞬間が生まれることを忘れてはいけない。“アホ”と言われながらも耐え続けていると、何かが見えてくるワクワクするその瞬間にでくわすことがある。不器用に生きるのもまんざら悪くない。