2013年4月号(第59巻4号)

健康に生きるために(4)

循環

728mm×515mm

〇東洋医学への目覚め
さて、ダイエツトに成功してビックリしたことは、十年以上も指摘されていた脂肪肝、高血圧、高脂血症がすべて良くなってしまったことに加え、狭心痛もめったに出なくなりました。こうして自分の体で学んだことは、生活習慣病治療には薬より先にやることがあると言うことです。この頃から、薬だけに頼っている西洋医学に疑問を持ち始め、ホリスティツク医学、鍼灸、東洋医学、漢方など勉強し始めました。
父はもともと産婦人科医だったのですが、50歳を過ぎてから東洋医学に転向し、漢方や鍼を治療に取り入れていました。時々見学したり、手伝ったりしたのですが、それほど興味は湧かず、風邪を引くと漢方を調合してくれましたがあまり服用もしませんでした。
最初に体験したちょっと不思議な東洋医学はPIA療法です。父が申し込んでいた講座に出られないと言うので、代理で嫌々出席しました。小さな磁石をツボに貼るのですが、S・Nの極性により身体の反応が変わります。骨盤が瞬時に緩むことで、見かけの足の長さの左右差が変わり、これを判定して診断していきます。主に痛みの治療に使われますが、実際に良くなる人も多く、面白くなってきて結局数年は通いました。しかし、次第にレーザー治療が中心になってきたので、行かなくなってしまいました。
東洋と西洋を統合した医学を総合的に学べるのがホリスティツク医学協会の講座です。通信教育と夏の実技があり、2年間で指導士の資格まで取りました。この時に出会ったのが、FBP法の先生で、呼吸法を応用して「気」の流れを感知していく方法で、主にアロマオイルの効果的な調合法に使われていました。毎月1~2回ずつの講座を受講して、東洋医学、言霊、ポージング、オイルマッサージなど様々なものを学びました。「気」がわかるようになるには5年近くかかりましたが、色々なことに応用が効き、この方法は今までで一番役に立ちました。「気」の診断法を覚えてからは自分で漢方を調合できるようになりました。漢方薬は長期に飲まないと効かないと言われますが、これは生薬の薬理作用で体が変化して行く場合で、漢方薬の持つ「気」を効果的に調合すると即座に効果の出る薬ができます。この面白さがようやくわかりかけて来た矢先に、父は脳梗塞で倒れてしまい、せっかく身近に立派な師がいたのに、ほとんど受けつぐことはできませんでした。結局父にかかっていた患者さんを全て突然に引き継ぐ事になり、当分は全く読めない略号とドイツ語のカルテを眺めながら混乱の日々を送ったのでした。その父が鍼灸師を集めて研究したり、治療していた「自律神経免疫療法」も私が引き継ぐこととなりました。この話はまた次回に。

〇今月の作品:循環
背景には水の流れを描いてあります。上から見た状態の魚のシルエットを貼り、さらにアルミ板を曲げて立体に作った魚を置いてあります。一部には、釣りに使うルアーも貼り付けてあります。前面には黒く塗った板を置き、中が見えるように空間を空けてありますが、これは実は肺の形になっていて、肺の中を覗き込んでいる感じになっています。手前の横線は針金を張ってあり、肋骨をイメージしています。ちょっとうるさいのですが、無いと間が抜けた感じになり難しいところです。右側の魚は上方へ泳ぎ、左側の魚は下方へ泳ぎ、循環しているように見せています。横の壁には銀紙を貼って反射するようにもしているのですが、正面からは全くわかりません。2009年第61回中美展入選作品です。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。