2013年2月号(第59巻2号)

Moscow国際空港経由で北欧へ向う折、乗客全員空港敷地内の宿泊設備に収容された話

元札幌医科大学附属病院 検査部
佐々木 禎一

ソ連経由で北欧諸国に向うルートが大分便利になった頃の話である。Moscow国際空港で北欧へ乗り継ぐ乗客も多かったが、当局から急に「本日は接続便がないので全員空港近くの宿泊所に案内する」と告げられ、全員地下に降りてから車で運ばれた。宿舎は3~4階建ての建物で1部屋に当て2人泊められ、私は東京私大の教授と一緒となった。彼はシャワーを浴びたいとしたが、結局水しか出ないので悲鳴を上げて飛び出して来た。夕食は全員食堂にて取ったが、係員が自慢してた様にスープ、焼肉、その他で味はまあまあであったし、分量はやはり持て余し気味であった。
夕食後は暇もあり一階のロビーに行くと日本人の他各国人がおり寛いでいたが、南米に戻るという子供連れ家族が多く、彼等は本国に向かうには反対ルートを廻る方が便利とか、この宿泊所に1週間位もおり、その期間中は食事の心配も不要とか言って楽しそうにしていた。
この宿泊所を我々日本人は内々“浮虜収容所”と呼んでいた。そしてその翌日何とか北欧(FinlandのHelsinki)に到着してやっと予定通りの旅程に復した。
もう一件ソ連機を利用した時のお粗末な話を想い出して紹介しよう。時期は正確に覚えてないが、欧州からソ連旅客機を利用して帰日した際の話だが、物凄く機体の揺れと騒音がひどく着陸時頭上の荷物棚が外れて中身諸共ばらばらと落ちてくる始末。私も他の乗客もびっくりしたが幸い怪我人はいない様であった。そしてこの機には最後部座席には青白い顔をした日本女性が横になり、最初から食事もとらず只眠り続けていた。でも日本到着後乗務員に手を貸して貰ってよろよろと入国者の列に入り、去って行った。とても体調が悪い上ガタピシの機内で随分と苦しかったろうと今でも時々想い出す情景であった。