2012年10月号(第58巻10号)

‘ゼロリスク’理想の追求に思う

国立医薬品食品衛生研究所・客員研究員
三瀬 勝利

日本人ほど完全な安全、換言すればゼロリスクを追及したがる国民はいないかもしれない。いささか旧聞に属するが、2009年に起こったブタ由来新型インフルエンザの大流行の前にも、メキシコでの新型インフルエンザの発生が報ぜられるや、大規模な検疫体制が取られ日本への侵入ゼロが目指された。結果は徒労に終わっている。多額の費用をかけても完全な安全の達成は至難の業のようである。
医薬品分野ではプリオン病の発生をゼロにするために、狂牛病発生国のウシ由来原料を医薬品の製造に使用しないようにというお達しが当局より出されている(=ウシ規制)。医薬品にはウシ由来原料を使うものが多く、特にワクチンの製造にはウシ血清や肉エキス培地は欠かせない。ところが狂牛病の発生国が多くなり、使えるウシ由来原料が制限されワクチン製造に支障をきたしている。プリオン病には治療法がないだけにウシ規制が必要なことは言うまでもない。しかし、ワクチン製造に使われるウシ由来物質の大半は超遠心などの精製過程で除去され、リスクは限りなくゼロに近い。こうしたケースでも『完全な安全を目指せ』という発言を恐れて、厳格な規制がワクチン製造にかけられ続けている。結果として新ワクチンの承認が遅れ、幼い命が危険に晒される。
福島の原子力発電所の事故後には『原発のリスクをゼロにするために、全ての原発を即時廃止せよ』と訴える人が多くなった。地震が頻発する日本での原電の存在は他国以上のリスクを伴う。原発事故のために故郷を失った人々の怒りと悲しみはいかばかりかと思うが、一方では早急に原発を廃止すれば経済への打撃は避けられず、停電による医療への深刻な影響も起こり得る。早急にゼロリスクを求めるのもよいが、理性的な議論を通じて効率的にリスクの低減を図る方策を考えることも重要ではないか。この苦悩に満ちた現世では、多くのことは黒白2元論では片付かない。人間が関わるもので完璧なゼロリスクはありえず、いろいろなリスクは相互に絡み合っていると思う。この国で科学に基盤をおいたリスク評価やリスク管理が多方面で定着することを望みたい。