2012年10月号(第58巻10号)

癒しの風景画(10)

曼珠沙華 (埼玉県)

530mm×415mm

〇写真から絵を描くこと
私は絵をほとんどの場合写真から描いています。いつも大忙しの旅行なので、現地で何時間もイーゼルを立てて絵を描く時間など取れません。できるだけ現場の雰囲気を覚えていられるように沢山の写真は撮ってきます。
小学生の頃から、絵の授業といえば、実物を見てスケッチして色を塗るのが当然であり、我々の体には絵は現場で描くと言うことが染み付いています。そして、風景画の大家と言われる先生方はほとんどの方が「現場主義」というその場で描く事を奨励しており、写真から描いたと言うと蔑みの目でみられます。
写真は3次元の風景を一度2次元として表現してあるので、平板化しているのと、ダイナミックレンジが低いので、黒や白がつぶれています。ですから写真をそのままそっくりに描くといかにも写真から描いたという絵が出来てしまいます。これを防ぐには、黒い部分にも色を入れ、出来るだけ奥行き感を出すようにすることと、省略を多用して細かく描き過ぎないことです。時代を反映して最近の若い画家の中には写真を使う方も増えているようです。そのうち、写真を使うことも普通になるのかもしれません。今はまだ肩身が狭い感じがします。

〇今月の絵:曼珠沙華
秋の花で良く見かけるのが彼岸花(曼珠沙華)です。埼玉県日高市に巾着田と言う彼岸花の群生地で有名な場所があります。ここは高麗川が、ループを描いており、その中の巾着の形の土地が、群生地となっています。開花時期になるとものすごい混雑で、車で行くのは断念し、電車を乗り継ぎ、さんざん歩いて現地へ到着しました。この時期にはコスモスの群生も見られ、二倍美味しいです。
現地はすごい人の数です。自由に歩くことなど不可能で、皆で列をなして見て歩きます。それでも花の数はすごいもので、沢山良い写真が撮れました。この絵も背景には沢山の人が歩いているのですが、そこは絵の便利なところで、人には全員消えていただきました。
彼岸花の赤を強調しすぎたかもしれませんが、自身の印象では、このくらい輝いていました。印刷ではわからないと思いますが、細いサインペンで縁取りをし、白い部分は削り絵の手法と、白い修正液を使用しています。
この絵は、H21年10月、第16回町田市「市展」入選作品です。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。