2012年9月号(第58巻9号)

再び碧素を語る

西武学園医学技術専門学校 顧問
佐藤 乙一

本誌第58巻第4号(2012年4月発行)の本欄で「戦時中の㊙文書を読む」なる一文を掲載していただいた。その要旨は戦時中2施設の陸軍病院病理試験室(現在の臨床検査科)の中で碧素なるペニシリンの一種を液体培養研究し、その濾液を通常の感染症兵士や爆創兵士等に使用、一応の成果をあげていたらしいとする紹介であった。これらの研究は保存資料によれば元千葉陸軍病院(現独法千葉医療センター)と元立川陸軍病院(場所は若干移動しているが、現独法災害医療センター)の2病院で、終戦時までずっと続けていたらしいというのである。ところがこうした研究は陸軍病院から昭和20年12月1日、国立病院として厚生省に移管された際には引継がれた様子はなく、碧素研究は昭和20年8月15日の終戦と同時に終りを告げたものと思っていた。現に国立千葉病院には陸軍の衛生部員であった技術兵が終戦後もそのまま国家公務員として病院に残留。昭和57年3月末まで働いていたが、ついに一度もこの碧素研究の件については話を聞いたこともなかった。
今、筆者の手許には軍病院から国立病院に移管し、10年目に厚生省が出版した810頁にも及ぶ「国立病院10年の歩み」なる貴重な資料がある。この中の「治療研究の推進」なる項目にも“碧素”という文字を見ることはない。ゆえにこの2文字は終戦の声を聞くと同時に消滅したものと信じこんでいた。
ところがである。筆者が元国立立川病院で見たこの碧素なる文字を、しかも戦後ずっと研究していたとする研究業績の要旨が本誌に掲載されたのである。佐々木正五先生が当のご本人。碧素の文字が蘇った感じがした。(本誌2012年3月号。Vol.58,No.3.P52)先生は小島三郎先生と並び称されていた小林六造先生(初代国立予防衛生研究所長)の門下生として研究を積み上げて来られたとされ、そのうち抗生物質の初期ペニシリンの研究として碧素と取り組んだというのである。当時化膿性疾患の治療剤といえばサルファ剤。なかでもサルファチアゾールなどが神的扱いを受けていた頃佐々木先生方はもっぱら大型角瓶で碧素培養をし、その濾液を外用。素人の私どもはこの薬により地球上からは感染症菌は消滅するなどの幻想を抱いた頃であった。ところが微生物群も抗生物質に抵抗して、研究者は夢にも見たことのない薬物耐性という新しい武器を開発したのである。
佐々木先生方の研究は、やがてペニシリン投与後人体内から消えゆく時間帯まで確認し、かくてペニシリンの投与時間まで設定するなど、今の各種抗生物質の投与方法の化学的基盤を策定したとされる。こうした手法は抗生剤治療法が現世で続く限り未来永久に光り輝くことであろう。