2012年4月号(第58巻4号)

戦時中の医系㊙文書を読む

西武学園医学技術専門学校 顧問
佐藤 乙一

中央線立川駅北口から西方に約10数分。年間を通して緑したたる大公園がある。称して昭和記念公園。この続きには広域防災基地から合同庁舎が所狭しと並んでいる。もともとここは戦前の陸軍航空隊があり、それに付属した陸軍病院があった。終戦により国立立川病院と改称。木造病棟の一角に検査室もあり、離れたところに病棟と検査室共用の木造倉庫があったが使わずの倉庫とされ、当時開けて中を見た人は少なかったらしい。赤錆びついた戸を強引に開けてみると中には古い木製の患者用寝台や故障した乾熱滅菌機等が無雑作に押し込まれていたことを思い出す。
昭和30年初めに病棟改築が決まり、この倉庫も撤去となる。中を整理したところ奥の片隅に小さなリンゴ箱程の頑固な木製軍用箱が押し込められていたが、これが何かを知る人もなかった。多分終戦による米軍の接収を逃れるために奥深くかくしておいたのであろう。
開けて驚いた。陸軍病院時代の破れかけた剖検記録や墨書した一冊の「参考綴」があり、表紙には消えかかった朱色の㊙押印もある。当時の秘密文書であったことは間違いない。文書名は「碧素について」。碧素とはペニシリンのこと。千葉陸軍病院と立川陸軍病院検査室間の共同研究らしく、そこには研究者たる軍医名も入っている。研究時期等は昭和16年以降程度で詳細不明。資料は(1)碧素の臨床的価値、(2)碧素について、(3)細菌室勤務心得、(4)ヂフテリアの4部構成。臨床経験例も詳しい。
恐ろしいことにこの碧素は薬剤科でなく千葉陸軍病院検査室で秘かに培養され、それに立川陸軍病院も参画。液体培養だったらしくその濾液をガーゼに浸し、通常の化膿創と爆創に分けて使用し、その結果は731部隊に報告していたのではないだろうか。ペニシリン単位は2~4単位程度だったとされる。
臨床経験例からこの濾液はすでに精製され注射用や飲用にも使用されていたらしい。
今となってみれば何のこともないのだが、当+F105は731部隊を含め軍陣医学はかなり進んでいたことを想像させる資料の一部である。