2012年4月号(第58巻4号)

癒しの風景画(4)

渓谷の音 (山梨県)

530mm×450mm

〇子供の頃のこと
我が家は芸術一家だったようで、父はバイオリン・絵画、母はピアノ・日本画・ロウケツ染め、姉はピアノ・油絵をやっており、私も小さな頃から、ピアノ・バイオリンを習わされました。でも、ひたすら同じことの練習というのは向いていなくて、嫌いでした。絵も家中の者がたしなんでおり、幼稚園の頃から絵画教室に通っていました。この絵画教室の先生は、押し付けることは一切せず、自由になんでもやらせてくれました。お天気屋と評されていた性格でしたので(今でもそうですが)、好きなことは熱中してやり、しばしば何時間も延長して絵を描いていたので、母親が心配して迎えにきたりしました。土蔵の中が絵画教室で、傍らには大きなケヤキの木があり、庭には鶏が闊歩し、鳥や昆虫が飛び回っているのんびりとした時代でした。オナガや金魚、鯉などの動物も飼われており、近くの女鳥羽川で遊ぶのも楽しく、絵は楽しいものだと刷り込まれた子供時代だと思います。

〇今月の絵:渓谷の音
渓流は大好きです。今まで描いた絵も渓流がもっとも多いと思います。そのため、私の絵の具箱(パステル箱も)は、様々な緑色で溢れかえっています。
この日は、絵になりそうな渓流を求めて上野原へ出かけました。秋山川に沿って写真を撮っていきますが、渓谷が深いと、なかなか川に近づく事も困難です。橋があるとチャンスで、橋の横からは川に降りられる事が多いです。最初の場所では、魚が沢山いるのが見えたので、写真撮影はほどほどにして魚釣りを楽しみました。私の釣りは雑魚釣りで、釣った魚はリリースします。ここではアブラハヤという7cm位の小さな魚が沢山釣れました。もっと大きな魚も泳いでいるのが見えましたが、こちらは釣れませんでした。釣りのホームページ「多摩川の魚たち」もありますので、のぞいてみてください。
道草を食ってしまいましたが、その後さらに支流にまで足を伸ばし、たまたま撮れた写真から描いた絵です。小さな滝から水の流れ落ちる音が渓谷中に響き渡っており、この音が絵から感じ取れるように描いたつもりです。
この絵は、H20年4月、第35回近美春季展で入選しました。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。