2011年11月号(第57巻11号)

ガダルカナルの旅-ケネディ島-

日本大学名誉教授
河野 均也

歳と共に記憶力は急激に衰えてきた。本誌の随筆欄に執筆を依頼されたので、忘れないうちに恩師土屋俊夫教授に纏わる話を少しだけ書き残しておこう。先生は酔うとよく海軍軍医時代の事を話された。特に何度も聞かされたのは土屋軍医乗船中の駆逐艦天霧と、後の米国大統領ケネディ艇長乗船の魚雷艇がソロモン諸島、ジョージア島沖で衝突した話である。木造のケネディ艇は大破沈没し、彼は6キロを泳ぎ、周囲500メートル足らずの小島にたどり着き一命を取りとめた。この小島は後にケネディ島と呼ばれるようになった。
2007年3月、ソロモンでマラリア撲滅の仕事をしていた神戸大学の川端教授に誘われ、ガダルカナル島を訪れる機会を得た。ガダルカナルは餓死島とも呼ばれ、先の大戦中、日本軍が誠に悲惨な戦いをした事で知られている。現在でこそ首都ホニアラには立派なホテルも建っているが、メインストリートには日がな一日一本の煙草と檳榔樹の実を道端に並べて売る女性、郊外では取れたてのカツオや鶏モモを炭火焼している路上レストランなどが見掛けられ、誠にのどかな街であった。しかし、一歩郊外に出ると至る所に飛行機や戦車、銃砲、軍艦などの残骸と共に沢山の慰霊碑が建ち、戦闘の激しさが偲ばれた。
宿泊した日系ホテルの支配人からケネディ島へ行けると言う話を聞き、急遽飛行機とホテルの予約をしてもらい、ケネディ島に近いギゾ島へ向かった。ガダルカナル戦中、最も熾烈な戦いとなった飛行場奪取戦跡に造られたヘンダーソン飛行場からセスナ機で島伝いに二時間半でギゾ島着。船着き場前のギゾホテルに泊まり、ケネディ島への船の手配をする。翌朝モーター付きの小舟で約30分、念願のケネディ島に辿り着く。椰子の木と竹の密生する小さな島は、サンゴ礁と美しい白砂に囲まれ、人影は全くない。周囲も釣り船がちらほらと見えるだけ。この静かな海で話に聞いた激しい戦いがあったとはとても思えなかった。ギゾ島の船着き場近くには取れたての魚や野菜、雑貨を売るトタン屋根だけの市場が建ち賑わっていた。市場の外れにある、小さな窓が一つ開いただけの郵便局で切手を買い、遠い日本に到着するか否かを心配しながら土屋夫人にケネディ島訪問の葉書を投函した。数週遅れて確実に到着したとのことであった。
ガダルカナルの丘の上には日本と米国の立派な記念碑が建っているが、米国のそれは守衛が立ち綺麗に清掃されていた。しかし、日本の記念碑周囲には捨てられた弁当箱等が目立ち、申し訳なく大きな塵だけ拾って片付けてきた。帰国直後、ギゾ島周辺でマグニチュード8.0の大地震が発生、津波による多くの被災者が出たとの報道があり心配したが、その後ギゾホテルも立派に再建されたと聞きほっとしている。東日本の震災からの復興はギゾ島のように簡単ではないだろうが、一日も早い復旧・復興を願って筆をおく。