2010年9月号(第56巻9号)

万物は空-私の死生観

東京大学分子細胞生物学研究所 名誉教授 田中 信男

私は小学2年生の頃、死がこわく、死後はどうなるかと思い、恐ろしく夜も寝られなかった。昭和19年18才で東大医学部に入り、徴兵検査で甲種合格し、戦死を覚悟していた頃、「死して悠久の大義に生きる」という言霊に騙され、自分を納得させていた。戦後はキリスト教に傾いたこともあったが、結局、得心がいかなかった。高齢になり再び死について考えるようになった。
:万物の本態と起源(天地創造)の仮説(科学神話):
生命とは何か。核酸であるという考えもある。約46億年前地球ができた後数億年で無機物から生物が誕生した。生物と無機物とでは分子レベルでは大きな差異があるが、原子レベルでは違いがない。原子は約10-10mのサイズであり、原子核の大きさは原子(最外側の電子軌道)の約10万分の1であることを考えると、原子の構造は殆ど空である。現代物理学によると、宇宙は約137億年前に真空の相転移に伴う量子論的エネルギー(粒子)のゆらぎを生じ、超短時間(数兆分の1秒以内)でインフレーション、ビッグ・バーンと呼ばれる現象を経て非常に高いエネルギー状態から急激に膨張し、物質や力の粒子を生じ、温度も圧力も低下し、さらに膨張を続け現在の宇宙ができたと推定されている。この事は超新星爆発、中性子星、ブラック・ホールなどの観測でも裏づけられている。現在でも宇宙は急激に膨張し続けていることがいろいろな観測データで認められている。電磁力、弱い力、強い力、重力の4つの力の統一理論は加速器を用いた実験などからも立証されつつある。宇宙にはダーク・マター、ダーク・エネルギーなど未知の事が多いが、膨大な宇宙が空から生じ、原子の構造も殆ど空である事から万物は空であり、空こそ悠久であると考える事ができる「色即是空、空即是色」。
私は万物は空(無)であり、死とは本来の姿である空に帰る事であると思っている。長い宇宙の歴史に比べれば、人の世は一睡の夢、邯鄲の夢をみるのも好い。物理、化学的にみれば、生物は極めて不安定であり、人は安定な永遠の生命を求める事はできない。将来、科学が進歩し、不死不老の妙薬ができたとしても、発癌性が問題になると思われる。細胞のアポトーシスが個体の発生・維持、癌の制御などに役立つように、老人の死は社会に貢献すると考え、美酒を嗜み、好きな事をして余生を楽しんでいる。