2010年9月号(第56巻9号)

虫林花山の蝶たち(9):

「上高地の奇跡」 オオイチモンジ Popular Admiral

標高が高い山に棲息する蝶の仲間を高山蝶と呼んで区別しています。日本にはおよそ13種のチョウ(タカネヒカゲ、ダイセツタカネヒカゲ、ウスバキチョウ、アサヒヒョウモン、ミヤマモンキチョウ、カラフトルリシジミ、コヒオドシ、クモマツマキチョウ、クモマベニヒカゲ、ベニヒカゲ、オオイチモンジ、ミヤマシロチョウ、タカネキマダラセセリ)がこのカテゴリーに入りますが、オオイチモンジはこの高山蝶の仲間で最も大きくて風格もあり、またその希少価値も相まって「高山蝶の王様」と呼ばれています。この蝶は北方系の分布を示し、北海道には比較的広く分布するようですが、本州では中部山岳地帯の限られた場所でしか見ることができません。
今回は高山蝶の王様オオイチモンジの集団吸水を撮影した時のことを記してみたいと思います。それは今考えても奇跡のような出来事でした。
ある年の7月の中旬に高山蝶の王様オオイチモンジの撮影をしたいと思い立ち長野県の上高地を訪れました。松本市の市街地では陽も差していましたが、上高地に到着すると空には厚い雲が立ち込め、今にも雨が降ってきそうな空模様になってしまいました。それでも、せっかく来たのだからと出発して、梓川の河原に沿って歩いて行きました。しかし、残念なことに目的のオオイチモンジは1頭も見ることができず、おまけに雨まで降り出してしまいました。そこで、蝶の撮影はあきらめて、傘を差しながら重い足取りで帰途を急いでいると、突然雲が切れて太陽が顔を出しました。すると、目の前の石積みに1頭の大きな蝶が舞い降りたのです。あわてて近寄ると、案の定、オオイチモンジでした。オオイチモンジは高校生の時に裏日光で見て以来(日光では現在絶滅)でしたので、喜び勇んで撮影したのはいうまでもありません。しかし、本当のドラマはその後に訪れたのです、その石積みには次から次にオオイチモンジが吸水に訪れて、その数は50頭を優に超える数になったのです。これはまさに「上高地の奇跡」と呼んでも過言ではないものでした。今回掲載した写真はその時のもので、この様な集団がわずか20mの範囲の中にいくつも形成されたのでした。とにかく、憧れの高山蝶の王様オオイチモンジの集団吸水ですから、カメラに入れたメディアのメモリーが無くなるまで撮影しようと思い、ひたすらシャッターを切っていたところ、突然、空からバケツをひっくり返したような雨が降り出し、雷まで鳴りだしたのです。さすがに身に危険を感じたので、逃げるようにその場を立ち去りました。
以来、毎年オオイチモンジに会うために上高地を訪れていますが、その時のような多数の個体の集団吸水に出会ったことはありません。でも、その時の情景が脳裏によみがえってきます。
本州ではオオイチモンジの分布地はかなり狭められてきてしまい、現在、北アルプスの一部の上高地でしか彼らをゆっくりと観察できなくなってしまいました。美しい梓川の河原のドロノキの梢を王者のように悠々と滑空するオオイチモンジの姿をいつまでも見ていたいものです。
虫林花山の散歩道:http://homepage2.nifty.com/tyu-rinkazan/
Nature Diary:http://tyurin.exblog.jp/

写真とエッセイ 加藤 良平

昭和27年9月25日生まれ

<所属>
山梨大学大学院医学工学総合研究部
山梨大学医学部人体病理学講座・教授

<専門>
内分泌疾患とくに甲状腺疾患の病理、病理診断学、分子病理学

<職歴>
昭和53年…岩手医科大学医学部卒業
昭和63-64年…英国ウェールズ大学病理学教室に留学
平成2年… 山梨医科大学助教授(病理学講座第2教室)
平成8年… 英国ケンブリッジ大学病理学教室に留学
平成12年…山梨医科大学医学部教授(病理学講座第2教室)
平成15年…山梨大学大学院医学工学総合研究部教授

<昆虫写真>
幼い頃から昆虫採集に熱を上げていた。中学から大学まではとくにカミキリムシに興味を持ち、その形態の多様性と美しい色彩に魅せられていた。その後、デジタルカメラの普及とともに、昆虫写真に傾倒し現在に至っている。撮影対象はチョウを中心に昆虫全般にわたり、地元のみならず、学会で訪れる国内、国外の土地々々で撮影を楽しんでいる。