2009年7月号(第55巻7号)

夏の訪問者

杏林大学医学部感染症学 大﨑 敬子

私の家のベランダに小さなミカンの木がある。こんな小さな木の場所がどうして判るのだろうと思うのだが、アゲハチョウがやってきて卵を産んでいった。蝶の幼虫というと例の形がちょっと気味悪い生き物なわけで、あまり観察したくないと思っていたが、ある新聞のコラムによると‘柚子坊’と名付けて、毎年訪れるのを楽しみに待っている人もいるそうだ。そこで今年は私も子ども達とともに、柚子坊の成長を見守ることとした。
ちなみに去年の夏にはその柚子坊達が5mmにも満たないときに発見し、ミカンの木の葉もまだ十枚たらずだったので、木を守るためといって1匹を残し、あとは引っ越ししてもらった。(正確には捨てた)でも、そのあとしばらくして突然消えたので、どうやら鳥の餌となったらしい。今年はミカンの木もひとまわり大きくなり葉の数も増えていたので、うまく蝶まで育つように思えて、ミカンの木にせっせと水をやっていた。
さて、この柚子坊達はいったいどんな蝶になるのだろうか?何気なく、インターネットで検索してみた。わたしは細菌の同定などを仕事にしているわけだから、蝶の種類だってきっと決められるはずと思い、調べてみた。ネット上にはたくさんの蝶に関するデータがあり、幼虫や蛹の写真も載っていて、すぐに決まると思っていたのだが、なかなか決め手がでてこない。やっぱり、経験がないと蝶の種類を特定するのはなかなか難しいものだなと思って、そのまま調べるのを止めてしまった。
細菌の同定方法はこれまで大きく変化している。私が初めて細菌学を習った頃にはいくつもの培地を組み合わせて生化学的性状を調べ、菌種の同定をしていた。その後、PCRなどで菌の姿を見なくとも遺伝子から菌種名が決まるようになり、最近では、16SrRNA遺伝子の塩基配列などから菌種を決定する方法が主流になっている。遺伝子を使って菌の同定を行うことは、簡便そうであり、誰にでも一定のレベルの仕事ができるという利点がある。たくさんのコロニーを見て学び、培養に条件に気をつけるといった熟練を必要とせずに一定のレベルの仕事をすることができる。しかし一方で、特に系統解析や分類の分野でのここ数年の進展をみると、また違った感がある。大量のデータが明らかにされればされるほど、私たちがこれまで出会った細菌がほんの一部に過ぎないことに気づかされ、いったいこのデータベースはどこまで増え続けるのだろうかと思うと計り知れないものがある。そして、十分な知識の蓄積と確実な同定技術の両方が揃ってはじめて、新しい知見に出会うことができる、まさに熟達が要求される分野だと思う。
話を柚子坊達に戻そう。彼らの食欲は旺盛で、とうとうミカンの葉は1枚残らず餌食となり、そこには変わり果てた木がつんつんと枝を残して立っていた。翌朝になって近くを探してみると、ベランダの壁に1匹、残った枝に2匹と、蛹のなりかけがいるではないか…。残念ながらその後、この蛹達は栄養不足のためか蝶になることはかなわなかった。こんなマンションのベランダに卵を産んだ蝶が悪いといってしまえばそれまでだが、ベランダにまで卵を産みにくるほど緑が少ないのかとも思え、自然を残すことの大切さを子供たちに教える機会となった。来年、柚子坊達がまたやってくるかはわからないけれど、もう少し鉢を増やしてやろうかと思案中である。