2009年3月号(第55巻3号)

「夏の闇」の女性

東邦大学名誉教授 五島 瑳智子

小説家開高健氏の没後20年(1989年12月に逝去)の今年、文芸雑誌「新潮」に1971年掲載された「夏の闇」の直筆原稿が出版された。彼の代表作となった「夏の闇」の主人公は、ベトナム戦争で信ずべき自己を見失った作家とおぼしき「私」が、ある夏10年ぶりにドイツの大学で博士論文を書き上げた女性と再会、秋の気配のただよいはじめたベルリンで別れ、「私」は再びベトナムの戦場に帰っていく。
文中の女性は、明らかに私の友人S女史をモデルにしている。ロシア革命の後、来日したヴァイオリニスト小野アンナ女史の姉にあたるブブノワ女史(ワルワーラ・ディミトリーエヴナ・ブブノワ)も、日本に住み、早大でロシア文学の講師をしていたが、彼女はブブノワ女史に師事し、後にドイツのボン大学に移った。彼女が博士論文を仕上げたことが当時日本人では珍しかったので、ボンの新聞に写真入で掲載された。その頃私はロンドンで学会の帰途、夏休みの時期でもあり、ボンで彼女と会い、フランクフルトからウィーンを経由し、モスクワまで共に旅をした。1969年の夏であった。
豊かな水をたたえて流れるライン河畔で、前年のチェコの“プラハの春”の事件をレポートするため、現地で臨時の特派員を依頼され、フォルクスワーゲンを運転して国境を越えたこと、また当時アフリカで起きていたビアフラの内戦の問題が欧州では大きく報道され関心が高いこと、一方日本ではベトナム戦争が問題になっていることなどを語り合った。その時彼女が手にしていたT.KAIKOのラベルのついたオリンパス・ペンD(当時最新の小型カメラ)は、少し前に開高氏と会った時、便利だからと置いていってくれたとのことだった。
1970年、大阪で万博が開かれ、彼女は仕事で来日した。電話で合う約束をしていたが、その日が来ない中に交通事故に会った。即死だった。まもなく文芸春秋に開高氏の追悼文が載った。
「夏の闇」の中の女性は、勿論フィクションや創作が加わって別人ではあるものの、彼女の小さなクセや、好みの特徴が書かれていて懐かしかった。モスクワのレストランで飲み残したグルジアのワインをホテルに持帰り、夜が更けるまで平和への希求を語り合ったあの時から40年が過ぎてしまったのに、戦争は各地で起こっていて、平和への道のりはまだ遠い。