2009年2月号(第55巻2号)

医学の進歩に戸惑う

東京大学分子細胞生物学研究所 名誉教授 田中 信男

医学・生物学の基礎は生物の構造、機能、情報および病理・病因の研究にある。医学の基礎は人体の構造を知ることである。明治の初め、日本が中国医学を捨て、西洋医学に走った主な理由の1つは解剖学にあった。
江戸時代中期以来行われた腑分けの結果、人体の構造は中国の医書に書かれたのは誤りで、西洋の医書が正しいことがわかったためである。私の学生時代(昭和19~23年)の頃は組織学の研究が行われていたが、さらに組織化学、標識抗体法による免疫組織学などが続いた。昭和30年代になると研究の中心は光学顕微鏡から電子顕微鏡に移り、細胞の微細構造とその機能の研究が盛んになり、細胞生物学が始まった。さらに、細胞の構成成分の立体構造などの分子生物学の研究が行われた。東京大学の私の所属する研究所は昭和28年醗酵工学の研究所として発足し、応用微生物研究所と称していたが、約20年前、分子細胞研究所に改組し、癌、神経科学、核内受容体など、医学・生物学の研究機関になった。その結果、ミニ医科研などと陰口をたたかれたが、最近行われた東京大学本部の評価委員会では全学部・研究所を通じて最優秀の研究業蹟をあげているとの評価をもらっている。
生体分子間の相互作用の結果生ずる高次の立体構造、プロテオーム、蛋白質と核酸との結合様式などを研究するシステム生物学の進歩などを見ていると、比較的構造の簡単なウイルスの人工的合成が遠くない将来に実現するのも夢ではないと思われる。1828年W?hlerが尿素を合成して以来、いろいろな有機物の合成が行われ、それまで生体成分は生命力という不思議な力でつくられるという神話が覆えされたが、それ以来200年にして、今や生物そのものの人工的合成に一歩一歩近づいている気がしている。生物の人工的合成はいろいろなメリットがあるが、一方で空恐ろしい気持におそわれる。医学は疾病の予防・治療、食糧問題など人類の福祉に貢献しているが、他方、病原微生物が生物兵器になるなど負の一面もある。