2008年5月号(第54巻5号)

タイムスリップ

北海道大学 大学院保健科学研究院 千葉 仁志

数年前にネパールのシェルパ族の脂質調査を行ったことがある。首都カトマンズからイエティ航空の小型機でルクラ(標高2700m)というエベレスト登山口の村へ行き、シェルパ族二百人余りから採血した。シェルパをポーターの意味だと誤解している日本人が多いが、シェルパは民族名である。数百年前にチベットから嶺を越えてヒマラヤ南麓に住みついた人々である。テムジン姓が多く、ヒラリー卿とエベレストに初登頂したテムジンもその一人である。採血用に日本の病院で使用している真空採血管を持っていったが、気圧が低いせいで血液の引きが遅い。文明の利器を呪いつつ何とか採血を終えた。翌朝、ゼネラルストライキのために定期便が飛ばず、幸いに飛んできた臨時便でカトマンズへ戻った。共同研究者が国立トリブバン大学の農学部関係者であったので、そこの遠心分離機を使わせてもらう予定であったが、大学に行ってみるとそんなものはない。急遽、採血を担当した医師の紹介でトリブバン大学医学部附属病院の臨床検査室で遠心分離機を探すこととなった。その臨床検査室は、血液検査室、免疫検査室、細菌検査室などと幾部屋にも分かれ、意外に立派である。生化学検査室には古い日立の炎光分析装置があり日本のプロパンガスが繋がっている。古いヤマトの浄水機もある。おやおや、これは20年以上前の日本の大学病院の臨床検査室だ。聞いてみると、病院自体がその昔に日本のODAで建設されたとのこと。さて遠心分離機だが、日本で尿検査用に用いる小試験管用卓上遠心機はあっても太い採血管の入るものが見つからない。確かに検査技師が使っているのは小試験管ばかりだ。そうか、ゼリーの入った太い採血管は20数年前なら日本でも出たばかりだ。これはまずい、20年以上昔にタイムスリップしてしまった。その時、部屋の隅に日立の卓上遠心機が見えた。開けてみると太い採血管が入る!が上がらなくなったので余り使っていないという。回してみると1100回転までは大丈夫だ。全ての分離を終えるまでの長い時間を遠心機は回りつづけた。病院を出ると夕暮のなか、家路を急ぐ車や自転車で混雑している。20数年前の“日本の検査室”から現代のカトマンズの喧騒に戻り、私も寝場所へ急いだ。