2007年11月号(第53巻11号)

君たちは三瀬諸淵を知らないのか

医薬品医療機器総合機構 三瀬 勝利

四十数年前の話である。当時、大阪大学(阪大)では、全国の若手研究者のために毎年「ファージ実験講習会」を主催していた。分子生物学の勃興期だったこともあり、講習会の希望者は定員の数倍に上っていた。自分のような劣等生は無理だと思ったが、取りあえず講習会に応募してみた。数日後、阪大から電話が入り、応募書類の他に手紙が入っていたと伝えられ、冷や汗をかいてしまった。間違えて母親宛に書いた「金送れ」の手紙を、講習会の応募書類と一緒に阪大に送ってしまったのだ。間の抜けたことをやったものだと、今でも自分自身に感心している。

応募者は多い上に、派手なエラーをしたので、落とされるものと覚悟していたが、不思議なことに講習会への参加許可書が送られてきた。講習会の親睦会で、会を主催された医学部教授から『三瀬さんは愛媛県の出身ですね。三瀬諸淵とご縁の方でしょう』と尋ねられた。初めて聞く名前である。『いいえ。私は愛媛の出身ですが、そういう方は身内にいません』と答えると、教授は何故か肩を落とされた。その後にも個別に二人の阪大関係者から、三瀬諸淵の縁者かと問われた。こうなると彼が何者か調べずにはおかれない。

三瀬諸淵(名は周三)は幕末の自然科学分野に多大の影響を与えたシーボルトの最後の弟子であり、彼の孫娘の夫でもある。諸淵は幕末から明治初頭の医学界をリードした偉人であり、高潔な人格者でもあった。司馬遼太郎の「花神」や吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」にも、重要な脇役として登場している。また、阪大医学部の前身・大阪医学校の創立に関わっていた。私が講習会の応募で落とされなかった理由が判明した。阪大医学部創立者の縁者を落とせなかったのだ。それは私にとり有難い誤解であったが。

この所、若い阪大医学部出身者に会う機会が多いが、誰も『三瀬諸淵の関係者ですか』と尋ねてくれない。私の姓は「みせ」と呼ぶが、中には「みつせ」と呼ぶヒドイ阪大出身者もいる。何たることか。私にはともかく、創立者に対して非礼ではないか。