2023年7月号(第69巻7号)

~ミス・ユニバース世界大会の公認ショファーとして~

国際臨床病理センター所長
河合 忠

 ミス・ユニバース(Miss Universe〔, 本稿での略称ミスU〕、1952 年創設、本部USA)世界大会がカリフォルニア州ロングビーチからフロリダ州マイアミビーチに移ったのが1960 年で、偶然1960年第8回大会と1961年第9回大会の2回、ボランティアで公認ショファーとしてミスUSAとミスUに係る幸運に恵まれた。大会の前半は米国50州の代表からミスUSA を選び、それに引き続いて約80カ国のミス代表からミスU を選考する世界大会が行われた。総勢130 名ほどの美女集団が1 週間、公式の大会期間中、厳重な監視下におかれ、文字通り“ 軟禁状態”に置かれた。マスコミはもちろん、“ 不埒な”大金持などとの接触をさけ、公式行事以外一切の個人的行動は禁止された。そのために地元在住の米国市民から厳選された既婚夫人がボランティア・ホステスとして、それぞれ1 名のミスUSA候補者と1名のミスU候補者を預かり、常に3 名が一緒に指定されたホテルの同室に宿泊し、ホテルと会場間の往復を専属の公認ボランティア・ショファーが毎日送迎を担当するよう設定されていた。当時、マイアミ周辺に在住する日本人は少数で、日本人二世のT夫人がミスUジャパンを預かり、幸運にも、T夫人家族と親交のあった筆者を公認ボランティア・ショファーに推薦されたというわけである。公式行事の最後の大舞踏会でミスUの王冠伝達式があり、晩餐会が開催された。ミスU候補者とミスUSA 候補者にはそれぞれ、制服着用の“ カッコよい”米国陸軍士官学校生がエスコートした。1960 年の大舞踏会では、王冠を返還した後の児島明子さんは前ミスU1959 として来賓用テーブルに着席し、T夫人と筆者が日本関係者として同席することとなった。1961 年度も筆者がボランティア・ショファーを務めたが、参加されたミスUジャパン(ミス東京)がセミファイナルに残られなかったためか、マスコミなどの取材も少なく、お蔭で筆者は世界大会をゆっくりと楽しむことができた。また、ミス・ジャパンの希望もあり、公式期間後、筆者の上司であったM 教授のボートで教室員数名と共にマイアミビーチ沖の小島で、晴天下、水着姿でランチ・パーティを楽しむこともできた。翌年帰国後は、華やかな芸能界とは縁遠い臨床検査一筋の世界を歩み続け、ミスUSA、ミスU及び関係者との再会を果たすことはなく、今は遠い過去の想い出のみが残っている。