2022年3月号(第68巻3号)

鳩の杖

東京都健康長寿医療センター
稲松 孝思

 東大工学部の本郷通り寄りに、東京帝国大学名誉教授、古市 公威(ふるいち こうい)の銅像がある。古市は、嘉永7年(1854)姫路藩士の子として生まれ、旧幕府の開成所などで学問した。維新後、国費留学生としてフランスに留学し、欧州の土木・工学を学んだ。帰国後は日本での土木工学の発展に尽くし、昭和9 年(1934)に80 歳で亡くなるまで、帝国大学工科大学初代学長、土木学会初代会長、日本工学会理事長、理化学研究所第2代所長などを歴任している。日本土木工学の育ての親とも言える人である。(その世話になった方が、わが子に「公威」の名前をつけ「きみたけ」と読ませた。
それがノーベル賞候補作家の三島由紀夫の本名(平岡公威)であるという)…、この原稿は彼の業績や人柄を語ることが目的ではない。ソファーに座った大きな銅像が手にしている杖にについて語ろうとしているのである。写真に見えるように杖の頭には鳩の飾りが付けられている。これは国に尽くした高齢の臣に、天皇が賜った恩賜の『鳩の杖』なのである。
 長く高齢者の診療にあたってきたが、高齢の末期患者などに見られる窒息や誤嚥性肺炎は頭痛の種である。
その対策について、いろいろ考えてきたが、起死回生の根本的手段は見いだせない。そのような中で、
“ をとこやま 老いのさかゆくひとはみな はとのつえにもかかりぬるかな
(新撰和歌六帖、第二帖721 鎌倉時代)”
 という鎌倉時代の古歌を見つけ、「鳩の杖」が気になっていた。鳩はむせにくく、杖は歩行を助けるものであり、老いを養う象徴として鳩の杖のことがうたわれているのである。以来、気になって、鳩の杖のことをいろいろ調べてみた。
歌のもとになっている故事は、「後漢書、礼儀志」の記述で、「年始七十者授之以玉杖」と、老齢の功臣に杖頭に鳩飾りのある杖“ 鳩杖を賜うことが見え、この杖を宮中で用いることが許された。鳩の飾りの意味については少し説明がいるようだが、鳩は水を飲むときに喉元をごろごろ言わせてむせないそうで、その縁起を担いだものである。
 インコや文鳥を飼育したことのある方は気づいているかも知れないが、水を飲むときには一旦口に含んでから、上を向いて喉に流し込む。鶏だって烏だって、大部分の鳥類は同様である。しかしハトの仲間と、サケイというモンゴルを中心に分布するトリだけは、例外的に下を向いたまま水を吸うことが出来るという。古代の中国の人は、このような鳩の習性にも気がついていたのであろうか。
 それはともかく、老いと死は、歩行障害、誤嚥性肺炎で象徴され、このことは中国古代から現代に至っても解決されていないと言うことに驚かされる。要するに、『鳩の杖』は、老いを養うことを象徴する由緒ある杖なのである。
 福井市の中央公園に地元出身の岡倉天心や由利公正の銅像と共に、岡田啓介元総理の立ち姿の銅像がある。海軍大将で、総理大臣のとき、二・二六事件で若手将校の襲撃を受けるが奇跡的に助かり、84 歳の長命を得た。その銅像が手にしている杖の頭に何かがついている。双眼鏡で確かめると確かに鳩の飾りであった。記録によると、最後に恩賜の鳩の杖を賜ったのは吉田茂元総理だという。彼の写真集に、杖を突いている姿があるが、鳩の姿はよくわからない。