2022年1月号(第68巻1号)

日本が誇る平和外交の体現者安達峰一郎

帝京大学 医真菌研究センター 客員教授
山口 英世

 私が外交官を話題にするのは畑違いも甚だしいが、以前の随筆「藤沢周平氏と競う(本誌通巻602 号、2006年1 月号)」でとり上げた同郷の偉人安達峰一郎博士の人物像と事績にあらためて触れてみたい。
 安達峰一郎は明治2 年、私の生家から歩いて15分位の距離にある農家に生れた。長じて東京帝大法科大学に進み、明治25 年、外務省に入り、かねて志した外交官としてのキャリアをスタートさせた。外交官初期の時代における第一の功績としてあげられるのは、明治38 年、日露戦争の講和全権委員随員としてポーツマス会議に参加した折、持前の卓越した国際法の知識と語学力を駆使して全権小村壽太郎を補佐し、講和条約成立に大きく貢献したことである。外交官安達峰一郎が東京帝大から法学博士の学位を授与されたのはこの功績による。
 その後も安達博士の外交官としての活躍は目覚ましく、とりわけ国際連盟理事会議長といった国際機関の要職に就任してからは数々の国際問題の解決に奔走した。強大な国力を背景にした大国の理不尽な主張・圧力には常に正論をもって対抗し、弱小国の立場を擁護し続けた安達博士の一貫した態度は見事というほかない。この揺るがぬ姿勢と信念が世界各国の信頼を得たのは当然のことであり、昭和5年に国際司法裁判所(平和宮)の判事に圧倒的多数の支持(加盟52 ヶ国のうち49 ヶ国)を得て当選し、翌年には所長に就任した。
 惜しくも博士は在職中の昭和9 年にアムステルダムで65歳の生涯を閉じた。「世界の良心」と謳われた博士の死を悼んで盛大なオランダ国葬が翌年1 月3 日に国際司法裁判所のあるハーグにおいて執り行われた。昭和10 年といえば、満州事変の勃発、国際連盟からの脱退など、日本がますます軍国主義に傾き、オランダを含む欧米諸国との関係が急速に悪化の一途を辿っていた時代である。それを考えると、敵性国家とみなされていた日本の一外交官の死に対して国葬の礼をもって遇したオランダの紳士的な態度に敬服する一方、安達博士がいささかの私心もなく生涯をかけて世界平和のために尽力した真の国際人であったことをあらためて強く認識させられる。それから80 年余り経った今日、地域紛争、テロ、核問題などさまざまな国際問題に明け暮れする昨今の世界情勢をもし眼にしたとするならば、果して博士は何というだろうか。