2021年8月号(第67巻8号)

夢に見た医の道へ

群馬大学名誉教授
小林 功

 私は群馬大学医学部を昭和36 年に卒業し、内科の教室に入り、特に甲状腺学、糖尿病学を学んだ。その間、平成元年に母校の臨床検査医学講座・検査部へ移り、平成9 年から4 年間病院長を兼務し、平成13 年退職。その後、民間の院長を4 年間勤め、さらに医療系大学である群馬パース大学の学長職を9年間経験した。翻って考えてみると、かつて私は文系志望で高校の国語の教師にでもなろうかと、漠然と考えていた。
〇再軍備論われに判らず父に問へば戸惑うごとく夜警邏に行く
 高校一年の時、毎日新聞に掲載された一首である。父は地元の警察官で、当時警察予備隊から自衛隊へ変わる機運に若者たちは反対した。高校二年になり、苦手意識の数学や物理はさて置き、暗記ものの国語、社会、英語などで点数をかせげば、何とかなると思い、医学部志望にきり替えた。幼少時の持病だった自家中毒症の記憶もあったかも知れない。そして首尾よく群馬大学の医学部志望課程に合格したのである。しかし、そこは医学部ではなかったのだ。
医学部志望課程で二年間で所定の単位を取得後、医学部専門課程への試験に合格しなければならないことを知る。学内には浪人200 名近くいるというのだ。二年後、全国公募で試験が行われたが、私たち医学部志望課程40名中、そのまま専門課程(4 年制)へ入学できたのは僅か11 名。29名が不合格で退学となり、私もその一人だった。
〇試験に落ちふて寝の我に母言ひき「うどんを食べな、また春が来る」
翌年、私たち天下の素浪人のために、補欠20名が用意されていた。こういう措置は3年間続いて、その後正式に医学部はストレートコースの6 年間となった。私は群馬大学と信州大学に合格。晴れて医学生になれたのである。今でもあの当時の夢を見る。「おれは、にせ医者ではないのか?」と思い、夢から醒めて、「ああ、よかった。夢で…」と思うのである。
 いざ、医学部専門課程に入学してみると、暗記暗記の連続で、記述式の試験も多く、晴れて医師小林センセイが誕生した。内科学の直接の指導者は山田隆司先生(信州大学名誉教授、故人)で、全米甲状腺学会賞(バン・ミーター賞)を受賞し、帰国。厳しく鍛えられた。やがて、山田先生の留学先、当時のオレゴン州立医科大学のグリア教授(故人)の下で、三年間の研究生活を送った。そして感じたのは、文系・理系に関係なく、よい指導者に恵まれれば、何とかなるという実体験だった。帰国後、10数年経ち内科から臨床検査医学の領域に進む運命もまた不思議である。
 八十歳を過ぎた老医は、3年前に心筋梗塞を経験したが、現在でも毎日自ら運転し、聴診器を肩に担いで、県内を走り回っている。
〇生きることと死ぬることとは紙一重、そーんなことが判って傘寿
〇歯にインプラント・胸にステント挿入しさらに生きるぞ にんげんだもの  第六歌集『峠』(角川書店刊)