2014年5月号(第60巻5号)

新・真菌シリーズ 5月号

写真提供 : 株式会社アイカム

スコプラリオプシス・ブレビカウリス Scopulariopsis brevicaulis

本菌は皮膚科以外の診療科ではほとんど耳にすることのないまれな病原性糸状菌である。患者の爪から分離されることが最も多く、白癬菌、Candida spp.に次いで3番目に多い爪真菌症の原因菌とされているものの、S. brevicaulisの分離頻度は白癬菌の百分の一以下と低い。そのほかごくまれに角膜や耳の真菌症をひき起こすし、免疫不全患者で肺真菌症の原因菌になった事例も知られている。だがそれよりも微生物検査室では汚染菌として分離されることのほうがはるかに多い。自然環境中に広く生息する真菌だからであるが、ハードチーズの表面や、次に述べるように壁紙に好んで発生するカビとしてよく知られている。
S. brevicaulisのもう1つのユニークな性質は、無機の砒素化合物からジエチルアルシンという揮発性の有機砒素化合物を産生する代謝能力を備えていることである。ジエチルアルシンはニンニク臭をもち、検出が容易なことから、以前は法医学・司法の分野で注目され、本菌を「砒素カビ」とよんで砒素の検出に利用した時代もあった。
本菌が砒素ガス(ジエチルアルシン)産生能をもち、しかも壁紙によく生えるという2つの性質が相まって思わぬ事件がひき起こされる結果になった。かつてヨーロッパでは壁紙を彩色するための絵具の顔料(とくに緑色顔料)には醋酸銅・亜砒酸複塩といった砒素化合物がよく使われていた。この砒素系顔料を含む壁紙が貼られた寝室に寝ていた人(なぜか少女が多い)が砒素中毒に罹って、なかには死亡したという事例があったらしい。
これに関連して今も多くの好事家の間で大きな話題となっているのは、フランスの歴史的英雄ナポレオン・ボナパルトの死因にまつわる諸説である。ワーテルローの戦いに敗れたナポレオンはイギリス軍に捕らえられ、1815年6月セント・ヘレナ島へ流刑となり、1821年5月にこの地で52年の生涯を閉じた。彼の死因は慢性砒素中毒であり、日頃愛用していたワインに砒素を盛られたためとするスウェーデンの歯科医S. Forshufvudらによる毒殺説の論文が1961年Nature誌(Vol.192,p.103-5)に掲載されると、これが定説となった。しかし1982年になって英国ニューキャッスル大学のD.E. Jones& K.W. Ledinghamはこれに反論し、死因は壁紙に含まれた砒素がカビによって気化したことによる中毒事故にあるとする説を同じくNature誌(Vol.299,p.626-7)に発表したのである。カビの種類についての言及はなかったが、該当するカビといえばS. brevicaulis 以外には考えられない。
Jones・Ledingham説の真偽のほどはさておき、本菌を顕微鏡で観察すると、円柱状のアネライドを伴った短い分生子柄が長い菌糸からひんぱんに突き出ている。アネライドはブラシ状に集まることが多く、その先に円い分生子が連鎖状に生じる。属名ScopulariopsisScopulaはラテン語で「小さい庭箒」を意味し、本菌の形態学的特徴をよく表している。

写真と解説  山口 英世

1934年3月3日生れ

<所属>
帝京大学名誉教授
帝京大学医真菌研究センター客員教授

<専門>
医真菌学全般とくに新しい抗真菌薬および真菌症診断法の研究・開発

<経歴>
1958年 東京大学医学部医学科卒業
1966年 東京大学医学部講師(細菌学教室)
1966年~68年 米国ペンシルベニア大学医学部生化学教室へ出張
1967年 東京大学医学部助教授(細菌学教室)
1982年 帝京大学医学部教授(植物学微生物学教室)/医真菌研究センター長
1987年 東京大学教授(応用微生物研究所生物活性研究部)
1989年 帝京大学医学部教授(細菌学講座)/医真菌研究センター長
1997年 帝京大学医真菌研究センター専任教授・所長
2004年 現職

<栄研化学からの刊行書>
・猪狩 淳、浦野 隆、山口英世編「栄研学術叢書第14集感染症診断のための臨床検査ガイドブック](1992年)
・山口英世、内田勝久著「栄研学術叢書第15集真菌症診断のための検査ガイド」(1994年)
・ダビース H.ラローン著、山口英世日本語版監修「原書第5版 医真菌-同定の手引き-」(2013年)