2013年6月号(第59巻6号)

健康に生きるために(6)

728mm×515mm

〇自律神経免疫療法(2)
この治療法は井穴刺絡がメインですが、これだけで効く人は僅かで、食事、運動、体温上昇、ストレス回避など免疫を高めるあらゆる事を同時にやっていかないといけません。ほとんど患者さん自身が努力してやって行く事であり、他人任せで自分は何もしないと言う方は残念ながら効果はあがりませんでした。
精神疾患、整形外科疾患、内科的疾患、耳鼻科疾患、痛みなどあらゆる病気の患者さんが来院しましたが、メインは癌の方で、7割位を占めていました。ほとんどの方が、手術をして抗がん剤をやり、再発して更に抗がん剤をやり、効果が無くなってやることが無いと放り出されてきた方です。身体はもうボロボロですから免疫を上げるのも並大抵の事では無く、余命も僅かなので奇跡のように快復する事はまれです。でも、治療を続けていく事で辛い症状が取れてきて、明るい表情になってきます。最後を迎える時までそれなりに元気で生きられ、それほど苦しむ事無く旅立っていかれる治療法と言うのは、他には無いものだと思います。
しかし、こういう西洋医学とは対極にある治療法には色々と問題点も多いのです。西洋医学の癌の3大療法をやっていれば、厚労省お墨付きの標準治療ですから、どのような結果になろうが問題になることは無いのですが、この治療法をやっていて亡くなると、後から問題の出て来ることもあります。
患者さん自身は、本を熟読してこの治療法を理解していて、辛い西洋医学の治療は絶対にやりたくないと覚悟して自律神経免疫療法を受けているのですが、家族だけでなく、親族もその方針に納得していないと揉め事が起きます。それまで一度も姿を見せなかった遠い親戚が突然に出てきて、抗がん剤を受けさせると、治療を中断させられたことも良くありました。家族が一緒にきて、話を聞いて納得してくれた時は良いのですが、全く顔を出したことも無い兄弟が患者さんが亡くなった後に文句を言い始め、心無いメールを何度ももらいました。訴訟を起こされている仲間もいたようで、実は危うい治療法なのでした。
こうして心が折れてしまっていた時に、MRI装置も寿命を迎え、MRI検査による収入が無くなったとたんに毎月赤字が積みあがっていくようになり、ついに閉院する事になってしまいました。

〇今月の作品:魚
この作品は二科展デザイン部のB部門に出すために作ったものです。何年も出していると次第に入選のコツがわかってきます。画面一杯に大きく作り、主題をアピールし、強烈な印象を与える事です。80人以上の審査員の半数以上が挙手しないと入選にならず、それがわずか数秒で決まるそうなので、一瞬のインパクトが重要になってきます。
魚は木材を切って削り、なにしろ大きく作りました。バックは人工芝ですが、毛足の長い密なものにこだわってい ます。バックをシンプルにすることで主題が浮き上がるようにしました。
2011年第96回二科展デザイン部B部門入選作品です。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。