2013年5月号(第59巻5号)

健康に生きるために(5)

花・幻想

728mm×515mm

〇自律神経免疫療法(1)
この治療法は、新潟大学の安保教授の発見した白血球に対する自律神経支配の法則を応用したものです。白血球像の比率が、交感神経優位の時は顆粒球が増え、副交感神経優位だとリンパ球が増えると言う仕組みです。
鍼灸を使って井穴(指先のツボ)刺絡を行ない、副交感神経を活性化して免疫を高めて、自分の体は自分の治癒力で治そうという治療法です。免疫の指標には白血球像のリンパ球比率の数値を使います。正常だとほぼ30%以上ありますが、病気の方はこの数値が下がっている事が多く、治ってくるにつれて段々と上がってきます。
父は鍼灸師を何人も集めて研究会を主催しており、色々と研究・研鑽をしていました。私は胡散臭い怪しい治療法だと思って距離を置いていたのですが、父の病気を機に結局これを引き継ぐ事になりました。
最初は何もわからない状態から勉強を始め、沢山の本を読みました。自律神経免疫療法研究会へ参加し、「習うより慣れろ」で、自分で鍼を患者さんに打ちながら治療法を覚えていきました。
自分で鍼を打って治療していると、一人あたり40~50分も掛かってしまい、一日に数人しか診られず、とても採算に合うものではありませんでした。そこで研修に来ている鍼灸師を何人か雇い、私は問診だけして治療は鍼灸師に任せるようにして、ようやく軌道に乗ってきました。
週に1回は、湯島にある自律神経免疫療法専門のクリニツクへ手伝いに行き、より多くの症例を経験して、この治療法の有用性を実感しました。
雑誌社がバックに入っていて、毎月のように関連本が出版され、その巻末には中町クリニックが自律神経免疫療法を行う医療機関として掲載されるので、徐々に認知度も上がり、問い合わせも増えてきました。治療は基本的に週一回のペースで続けていくので、一日に何件も申し込みが来るようになると予約枠はたちまち一杯になりました。鍼灸師を3人まで増やして対応したのですが、かなりの人をお断りするような状態でした。どこの仲間のクリニックも一杯の状態で、飛行機や新幹線で遠くから通ってくる患者さんもいて、交通費が治療費の何倍もするような気の毒な方もいました。
健康保険が使えない自費診療ですから、1回の治療に5000円いただいていたのですが、1時間に数人しか診られないので儲けは少なく、最終的には6500円まで値上げしました。苦労の割には収入の少ない治療法で、この治療を始めようという医者は増えませんでした。しかも、会員になるハードルが高く、理事のクリニックで研修をし、5人以上の症例を集めて研究会で発表をしないと許可されず、徒弟制度のような状態でした。
治療を重ねて行くにつれて、様々な問題が浮かび上がってきましたが、それはまた次回に。

〇今月の作品:花・幻想
鏡を効果的に使った作品を作ろうと企画した作品です。写真では分かりにくいと思いますが、6個のアクリルボックスの中が本物の作品で、あとは鏡に写った画像です。作品として展示するにはガラスの鏡は使えないので、アクリル製の鏡を大きさ指定で作ってもらいました。アクリルボックスも特注品で、これだけで1万円以上の費用がかかり、今回は高価な?作品です。内部に入れた花は本物を立体的に乾燥させたもので、家内から提供してもらったものです。正面からの像だけでなく、鏡で側面も見られ、実際には周囲の風景や自分も複雑に写りこむと言う、ちょっと幻想的な変わった作品です。2011年第44回かわさき市美術展入選作品です。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。