2013年1月号(第59巻1号)

健康に生きるために

フィッシュ・コンストラクション

728mm×515mm

〇健康に生きるために
昨年で絵画関係の話は終わってしまったので、今年は何を書いたらよいか悩んだのですが、私が今まで色々と体験したり、試行錯誤してきた健康に関する事を書いていこうと思います。独りよがりな点もあると思いますが、参考になりそうな所だけ取り入れて、その他は笑って読み飛ばして下さい。

〇健康への目覚め
医学部卒業後は放射線科医局へ入局。最新の機械を駆使して西洋医学の最先端を突っ走っていました。まだ若さ一杯でしたから、週半分の当直も、夜遅くまでの読影業務もバリバリこなして、自分の健康のことなどは考えたこともありませんでした。夜、仕事が遅くなる日は医局で出前を取ってくれるのですが、なぜかいつも人数分より多く、私は余った分をほとんど平らげて、3人前は軽く食べていました。
もともと痩せていた方で、食べても太らない体質だったのですが、さすがに数年もすると太りはじめ、60kg以下だった体重は、遂には75kgにまでなり、Mサイズだった洋服もLLになりました。健康診断では、高血圧、高脂血症、脂肪肝、肥満が指摘されていましたが、医者の不養生で何もしませんでした。
そして、数年後には、遂に左胸の絞られるような痛み、そう狭心痛が始まりました。心臓の痛みがだんだんと上に上がって来て、左肩痛~左歯痛にまで広がって、数十分で収まりますが、それは嫌なものです。さすがに循環器科で診てもらいましたが、検査結果は異常なしでした。
当時、町田市の父のクリニックにMRI装置を入れてもらい、私はここで画像診断の仕事を始めていました。その一環として、MRIによる内臓脂肪検査を導入しました。その説明や指導のために、肥満やメタボリックシンドロームに関する勉強を始め、肥満学会へも入会しました。自分の内臓脂肪を測定してみると、100平方cmを超える完全な内臓脂肪肥満でした。宣伝のために自分の内臓脂肪の経緯をホームページに載せることとし、ダイエットを開始しました。
そうして75kgあった体重は1年半後には、65kgにまで減ったのですが、この続きは次回をお楽しみに。

〇今月の作品:フィッシュ・コンストラクション
今年は、平面絵画ではなく、半立体作品を中心に展示します。2008年に二科展デザイン部に初入選し、ここで半立体作品の数々を見て、その魅力に取り付かれました。そして翌年に奮起して作ったのが今回の表紙作品です。魚は紙粘土を使って作っています。様々な基板を置いてそこからコードを引き回し、いかにも機械の魚を作っているような雰囲気を出しました。締め切り前日まで必死に作成していて、接着剤が乾くか心配だったのですが、結果はなんとB部門最高位のイラスト大賞でした。
私にとっては一番めでたい作品で、年頭に展示させていただきました。翌春まで、全国8箇所ほどで巡回展示され、さらに過分な賞金までいただいてしまいました。2009年第94回二科展デザイン部B部門入賞作品です。

多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/(現在閲覧不可)
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/(現在閲覧不可)

絵とエッセイ  鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。