2012年8月号(第58巻8号)

癒しの風景画(8)

立山遠望 (富山県)

1150mm×800mm

〇公募展について
コンクールに入選できるようになると思い上がりも頂点に達し、こんな小さな世界?(公募展が大きいとは限らないのですが)では無く、もっと上を目指そうと絵画団体の主催している公募展に出したくなります。この世界もピンキリでして、日本最高峰の日展から、会員数十人程度の小さな所まで色々です。
最初はまあほどほどの所ということで、近美展に出品しました。ところが初回なのに、新人優秀賞を受賞して、一気に会友になってしまいました。嬉しいというよりこんなにすぐに上になっていいのかというとまどいでした。その後はしばらく絵を出品していましたが、地方展での賞の決め方の不透明感に嫌気がさして、次は中美展に鞍替えしました。ここは結構厳しくて、賞はさっぱりとれないのですが、なぜか位だけはどんどん上がって、もう準会員になってしまいました。賞にも入らないのに位だけ上がっていく、単に人を増やしているだけのシステムに疑問を感じながらだらだら続けています。
4年前からは、ひょんな事から二科展デザイン部に出品しており、最初から入選、2年目には大賞までいただいてしまいました。絵の範疇にとらわれない自由な芸術表現が出来るのが気に入っています。他の人の作品を見ていても、わくわくビックリ、ときめくものが多く、絵の会とは違う楽しさがあります。当分はここで出品していくつもりです。

〇今月の絵:立山遠望
信州の大町から黒部第四ダムへ入り、さらに上ると立山連峰が一望の下に見渡せる室堂に出ます。自分のいる崖から遥か下方まで谷が続き、そこから一気に立山連峰が立ち上がってくるという、まさに絵を描くためにあるような場所です。ちゃんと絵描きが一人いました。皆さんに「私か」と聞かれますが、まだ、絵を再開してない頃の写真から描いた絵で、残念ながら知らない人です。
この絵は最初A4サイズで描いたのですが、これでは迫力が伝わらず、40号に描き直しました。大きな絵で描いていると、この谷底に飛び降りてしまいたくなるような絵の中に入り込んだような気分になってきます。画家が自分の絵に陶酔してしまってはいけないと思うのですが、見るたびに惚れ惚れとして眺めてしまう絵の一枚です。
この絵はH19年11月、第34回近美展で入選しました。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。