2012年7月号(第58巻7号)

癒しの風景画(7)

幽玄の流れ (青森県)

455mm×380mm

〇コンクール応募の時代
絵が少し上手くなってくると、自分で眺めていたり家族に自慢しているだけではつまらなくなってきます。人間どうしても他人に認められたいという欲望はあるもので、どこかに展示して批評(褒めて)してもらいたいとか、コンクールに出して入選したい(自分の実力を試したい)とか思ってきます。私もその病気にかかってしまい、あちこちのコンテストに出すようになりました。最初はほとんどの所に落選してしまい、凹んだものですが、「日本の自然を描く展」に入選してからようやく少しコツがわかってきました。何より出すところを選ばないといけないのです。人物画中心の会に風景を出してもだめですし、抽象画主体の会にリアル画を出しても入選する訳がないのです。賞金の高いコンクールはプロの稼ぎ場所になっていますから、素人が通る訳がないのです。こうして、コンクールの画風や、競争率が少なくて出来るだけ入りやすいところばかり選ぶようになってからは、勝率8割程度、受賞も結構できるようになってきました。
でも、数年経ってふと立ち止まると、コンクールって何だろうと考えてしまいました。出品するには数千円から万単位のお金がかかります。荷造りして宅急便で送るにもかなりのお金がかかります。入選すれば会場へ見に行くにも旅費がかかります。こんなに散財しても得られるのは一枚の賞状と自己満足のみ。最初は知り合いに知らせて見に来てもらい、祝福をいただきましたが、回数が多くなると毎回ご足労願うのも大変だろうと誰にも知らせなくなり、だんだん空しくなってきました。今では、所属の公募展と主だった所にたまに出す程度となりました。みんな通る通過点なのかもしれませんが、今後どうしようか悩みはつきないです。

〇今月の絵:幽幻の流れ
今まで行った旅行先の中で好きな場所の一つが青森県の奥入瀬です。1回しか行ってないのですが、どの場所も絵になります。もう奥入瀬は飽きるほど描いていますが、特に好きなのがこの絵の場所で、同じ場所をもう3回も描いています。奥の森に光があたり、暗い川にその光が反射して、緩やかな流れに揺らいでいるという、まさに幽幻ともいうべき風景です。
この絵は、H20年6月、招待作家絵画展に出品しました。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。