2012年5月号(第58巻5号)

癒しの風景画(5)

深緑の渓流 (静岡県)

910mm×730mm

〇高校から大学の頃
中学の時の美術はお仕着せで、まったく自由が無く、美術は嫌いでした。嫌いな事はとことんやらない性格でしたから、あまりのやる気の無さに先生に殴られたこともありました。
玉川学園高等部に行くと、ここは自由なカリキュラム制度があり、進度テストに受かれば、授業を他の教科に振り分ける事ができました。私は、普通の教科をさっさと終わらせて美術ばかり取って、ほとんど美術室入りびたりの学生生活でした。美術の先生は奔放豪快な性格で、多少の悪には目をつぶって好きな事をやらせてくれました。私は、ひたすら油絵の人物画ばかりを描いていました。50号とか100号の大きな絵も描かせてくれて、夏休みはずっと美術室に泊まり込みで二科展のための絵を描きました。搬入直前になると、二科会重鎮の吉井先生の自宅まで、トラックで皆の絵を持って行き、道路に並べて講評会をし、直す所を指摘してもらいました。こうした努力が実って、2年生の時には二科展絵画部に入選を果たしました。
高校卒業時には、医学部受験をしたのですが、当然受かる訳が無く、その後一浪して東海大学航空宇宙学科へ入学しました。その後も夏休みは高等部の美術室に通いつめ、二科展の絵を描きました。そうして二度目の入選ができました。
しかし、この頃パソコン時代が到来し、NECのパソコンPC-8001が発売されてからは、ゲーム作り人生が始まってしまい、この魅力の前には絵画もかすんでしまい、長い休止期に入ったのでした。

〇今月の絵:深緑の渓流
この絵の場所は伊豆の中央部を流れる徳永川と言う小さな川です。伊豆には、良く小旅行に行くので、その度に渓流を探すのですが、道が狭くて車を駐車できない事や、渓谷が深くて川まで降りられず、写真を撮れる所はごくわずかです。ここは、道から比較的近くて、少し藪こぎをすると川に出られます。それでも、藪こぎ出来るのは、草の少ない新緑の時期までです。
川幅は小さく、水量も少なく、あちこちに粗大ごみが捨てられているような悲しい川で、写真で撮るとちょっとがっかりなのですが、絵では、大胆にいらない部分をカットできますから、見事な渓流の絵に仕上がりました。この頃はリアル画に打ち込んでいた時期なので、これでもかというくらい細かく描いてあります。
この絵はH18年11月、第33回近美展で、新人優秀賞をいただき、これで会友になれました。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。