2012年2月号(第58巻2号)

癒しの風景画(2)

梓川冬景色 (長野県)

915mm×730mm

〇新しい削り絵の技法
水彩画を描くときには、一番明るい地の色を白としてあらかじめ残しながら描いていかないといけません。ですから、ある程度完成形を頭に入れながら描いていかないと、最後に明るさの足りない暗いような絵になってしまうのが落ちです。ここが水彩画が簡単そうでいて実は奥が深くて難しい点だと思います。水彩画を描いていてふと気づいたのは、最後に色を削って白い地の色を出してやれば、簡単に輝く部分が表現できるという事です。それからは、あらゆる削る道具を揃えて、削りの日々です。最初は削りすぎて紙は穴だらけでしたが、次第にどの程度の厚さの紙が良いか、削り方の程度も慣れてきて、上手く出来るようになってきました。大きな絵の場合は、全て手作業で削っていると、時間が掛かって大変なので、ルーターという電動工具まで使っています。水彩やパステルは比較的綺麗に削れますが、アクリルを厚く塗ってしまうと削るのが大変になります。あまり強く削ると、画面がささくれ立って荒れてしまったり、穴があいてしまうので、このあたりの加減が難しいです。この技法のおかげでリアルに見える絵が描けるようになりました。

〇今月の絵:梓川冬景色
長野県梓川を題材にしたコンクールがあると知って、初春に梓川の写真を撮りに行きました。信州は故郷ですから、ぜひ、ここを舞台にしたコンクールに入選したかったのです。
松本付近を走っている時には、あたりに雪は無かったのですが、梓川に沿って上って行くにつれ、時折雪がぱらつくようになり、山には雪が目立ってきました。絵に良さそうな場所を求めて車を走らせてみたのですが、寒々しい風景ばかりで、いまいち、画欲がわきませんでした。でも、道路沿いの崖から険しい谷と、山にへばりつくような集落を見た時、これは絵になりそうだと思い、30号の大きな絵にしました。
H19年3月、第6回信州梓川賞展で銅賞に入賞しました。
多摩川の魚たち:http://homepage3.nifty.com/tamafish/
絵画のギャラリー:http://r-kaiga.suz.cc/

絵とエッセイ 鈴木 孝成

昭和28年1月12日
信州松本にて生を受ける

<職歴>
昭和57年…東京医科大学医学部卒業、放射線医学教室大学院に入学
昭和61年…東京医科大学放射線医学教室助手
平成2年…米国アリゾナ大学メディカルセンター核医学に一年間留学
平成4年…東京医科大学放射線医学教室講師
平成7年…東京医科大学退職、町田市にて、中町クリニックを開業。MRIを導入して地域の画像センターとしての機能を担っていた。
平成23年…中町クリニック閉院。

<絵の略歴>
幼い頃から絵や工作に熱中していた少年だったそうである。小学生の頃は、松本の月草絵画教室に通っていた。中学になって押し付けがましい美術の授業に嫌気がさして、物理部で飛行機ばかりやっていた。高校では、美術室入りびたりの生活となった。主に人物の油絵を描いていて、二科展絵画部に入選。大学は1年浪人後、飛行機好きが高じて東海大学航空宇宙学科に入学。その後も数年は夏休みに高校の美術部へお邪魔して二科展の油絵を製作し、2度目の二科展入選を果たす。その頃にPC-8001が発売されてパソコンブームとなり、ゲーム開発に熱中して絵の事はすっかり忘れる。芸夢狂人のペンネームで、雑誌に記事を載せたり、九十九電気にゲームソフトを卸したり大忙しであった。
東海大学卒業の頃はすっかり不況のまっただなか、希望する航空関係の企業に勤められる可能性も無く、東京医大を受験したところ、奇跡的に入学できて、ここからまた6年間の学生生活が始まった。
東京医大卒業後結婚し、放射線科医局へ入局後は忙しい新米医者の生活になり、絵を描くのは、子供とスケッチをする程度であった。
そして、ふと気づくと、50歳も過ぎ中年真っ只中であった。ひょんなきっかけからリアルな風景画の世界にはまり、現在に至っている。