2011年10月号(第57巻10号)

虫林花山の蝶たち(22):

カンバーウェルの美女 キベリタテハ Camberwell beauty

キベリタテハ(黄縁立羽)は、翅表外縁に黄金色(黄色)の太い帯が縁取り、そのすぐ内側に水色の斑紋が一列に並ぶ。さらに、地色は暗小豆色のベルベットのようなしぶい光沢があってとても気品がある美しいチョウです。日本国内では、中部地方の山岳部から福島県以北にかけての冷涼な地域に分布し、また世界的にみても、ヨーロッパをはじめとする北半球に広く分布する北方系のチョウといえるでしょう。
キベリタテハは英名をCamberwell Beauty(カンバーウェルの美女)といいます。もともとこのチョウが最初に発見されたのは、1748 年に南ロンドンのCamberwellの近くのCold Arbour Lane という場所です。その後、モーゼス・ハリス(Moses Harris)という英国人の昆虫学者は、1766 年に発刊された“The Aurelian”という本の中で、このチョウを「Camberwell Beauty」と名づけたのです。カンバーウェルの美女とは何と魅力的な名前なのでしょう。このCamberwellという場所は、有名なロンドン橋から南に3マイル程の距離に位置していますが、当時のロンドンはテムズ川の北側だけをさしていて、Camberwellがあるテムズ川より南側は、劇場や娼館などが立ち並び、浮浪者が多く住むぶっそうな歓楽街だったと思われます。ですから、ハリス先生がCamberwell beautyと呼んだのは、もしかして「その筋のケバいお姐さん」をさしていたのかも知れません。でも、カンバーウェルの美女にしろ、カンバーウェルのお姐さんにしろ、彼がこのチョウを見てその美しさ驚き、そして魅了されたことは間違いない事実でしょう。ところが、現実とは皮肉なもので、現在の英国には、このチョウは定住しておらず、ヨーロッパ大陸から渡ってくる個体が稀に見られる程度なのです。実際、僕はこれまで英国に2度ほど留学しましたが(ウェールズ大学とケンブリッジ大学)、英国滞在中にこのチョウに一度も出会ったことはありません。
昆虫少年だった子供の頃、このキベリタテハに憧れ、図鑑でこのチョウを見るたびにその美しさにため息をついていました。でも、残念ながら僕が生まれ育った神奈川県にはこのチョウは分布していなかったので、長い間、高嶺の花ならぬ高嶺のチョウだったのです。それからしばらく経った高校時代の夏に、昆虫採集を目的で訪れた八ヶ岳山中で、川を渡ろうとして足を滑らして倒れてしまいました。服を濡らして川から立ち上がった時に、一頭のタテハチョウが目の前の河原から飛び立ち、近くのシラカバの木の幹に静止したのでした。ふとそのチョウをみると、あろうことか憧れて久しかったキベリタテハでした。それは今思い出しても衝撃的な出会いでした。
時は過ぎ、毎年8月の中旬になると車を運転してこのチョウに会いにシラカバ(このチョウの食樹)がある山地の林を訪れます。今では訪れるたびにこの美しいキベリタテハをみることが出来ますが、何度見ても、幾つになっても、このチョウは僕の胸をときめかせてくれます。カンバーウェルの美女(キベリタテハ)は、これからも僕の永遠の憧れであり続けることでしょう。
虫林花山の散歩道:http://homepage2.nifty.com/tyu-rinkazan/
Nature Diary:http://tyurin.exblog.jp/

写真とエッセイ 加藤 良平

昭和27年9月25日生まれ

<所属>
山梨大学大学院医学工学総合研究部
山梨大学医学部人体病理学講座・教授

<専門>
内分泌疾患とくに甲状腺疾患の病理、病理診断学、J105分子病理学

<職歴>
昭和53年…岩手医科大学医学部卒業
昭和63-64年…英国ウェールズ大学病理学教室に留学
平成2年… 山梨医科大学助教授(病理学講座第2教室)
平成8年… 英国ケンブリッジ大学病理学教室に留学
平成12年…山梨医科大学医学部教授(病理学講座第2教室)
平成15年…山梨大学大学院医学工学総合研究部教授

<昆虫写真>
幼い頃から昆虫採集に熱を上げていた。中学から大学まではとくにカミキリムシに興味を持ち、その形態の多様性と美しい色彩に魅せられていた。その後、デジタルカメラの普及とともに、昆虫写真に傾倒し現在に至っている。撮影対象はチョウを中心に昆虫全般にわたり、地元のみならず、学会で訪れる国内、国外の土地々々で撮影を楽しんでいる。