2011年6月号(第57巻6号)

虫林花山の蝶たち

日本の国蝶 オオムラサキ Great Purple Emperor

世界各国には、それぞれを象徴する国花や国鳥というものがあります。日本の国花はサクラ、国鳥はキジ、ということは動植物にことさら興味がない人でも広く知られています(小学校や中学校の授業で教わる)。ところが、国蝶というと、一般の人にはなかなかピンときません。例えば、東京の街角を歩く若者(若者でなくても良いが)に、日本の国蝶は何ですか?と聞いたとしたら、いったいどのくらいが「オオムラサキ」と答えられるでしょうか…多分、3分の1にも達しないかもしれませんね。国蝶といっても、その認識はまだ低いのです。
国蝶を選定している国は、日本以外には無いとされています(台湾、マレーシア、ブラジルなど数カ国で国を代表する蝶はありますが)。以前、日本人は秋に鳴く虫の声を愛でるが、欧米人はそれが雑音にしか聞こえないということを聞いたことがあります。つまり、自然界の昆虫にまで愛着を感じるというのは、古来より花鳥風月を重んじる日本人独特の感性なのかもしれません。しかし、近年ではその感性が、だんだんと失われていくのは残念でなりません。
オオムラサキが日本の国蝶に選ばれたのは、国鳥にキジが選定された1947年から遅れること10年の1957年です。その選定には日本昆虫学会の中でもかなりの議論があったようです。最後まで日本の国蝶の座をオオムラサキと争ったのはギフチョウだったということです。ギフチョウもマニアックな蝶なので、昆虫好き以外の一般人はほとんど知らないと思いますが、こちらは日本特産で、「春の女神」として虫好きの人にはたまらないほど魅力を持った蝶です。一方、オオムラサキはベトナム北部から台湾、中国東北地方にまで及ぶ東アジアの広域分布種ですので、必ずしも日本の自然環境を代表する蝶ではないといえます。でも、タテハチョウの仲間では世界でも最も大きなものの一つで、とくに オスの翅表に広く輝く青い幻光は、何度見ても感激してしまいます。これほど美麗で大型のタテハチョウは国際的にも誇れるものでしょう。つまり、「日本における代表的な大型美麗種」という観点からは申し分ない要素を持った蝶ということで日本の国蝶に選定されたのです。
オオムラサキは、九州から北海道南部まで広く分布し、幼虫の食樹はエノキです。この蝶は花には見向きもせずに、広葉樹の樹液を吸います。日中のクヌギの木の樹液には、オオムラサキのほかにも、ゴマダラチョウ、ヒカゲチョウなどの蝶や種々の昆虫たちが集まってきます。 樹液に沢山の昆虫たちが群れ集まって、樹液を吸っている様子はまるで酒場のようです。その樹液酒場での乱暴者はオオスズメバチで、先に訪れていた虫たちをしばしば蹴散らして最も良い場所を確保する姿を良く見かけます。でも、オオムラサキだけは、気の荒いオオスズメバチをもろともせずに、口吻や翅を使って退けてしまうのです。日中の樹液酒場のオーナーはオオムラサキなのです。
オオムラサキの棲息域は人間の生活環境とオーバーラップする里山なので、開発などの影響をダイレクトに受けてしまいます。そのため、この蝶が見られなくなった地域も少なくありません。青空をバックにして、雑木林の梢をオオムラサキがゆうゆうと滑空する姿は、日本の里山の原風景としていつまでも残しておきたいものですね。
虫林花山の散歩道:http://homepage2.nifty.com/tyu-rinkazan/
Nature Diary:http://tyurin.exblog.jp/

写真とエッセイ 加藤 良平

昭和27年9月25日生まれ

<所属>
山梨大学大学院医学工学総合研究部
山梨大学医学部人体病理学講座・教授

<専門>
内分泌疾患とくに甲状腺疾患の病理、病理診断学、分子病理学

<職歴>
昭和53年…岩手医科大学医学部卒業
昭和63-64年…英国ウェールズ大学病理学教室に留学
平成2年… 山梨医科大学助教授(病理学講座第2教室)
平成8年… 英国ケンブリッジ大学病理学教室に留学
平成12年…山梨医科大学医学部教授(病理学講座第2教室)
平成15年…山梨大学大学院医学工学総合研究部教授

<昆虫写真>
幼い頃から昆虫採集に熱を上げていた。中学から大学まではとくにカミキリムシに興味を持ち、その形態の多様性と美しい色彩に魅せられていた。その後、デジタルカメラの普及とともに、昆虫写真に傾倒し現在に至っている。撮影対象はチョウを中心に昆虫全般にわたり、地元のみならず、学会で訪れる国内、国外の土地々々で撮影を楽しんでいる。